2014年05月28日

子宮頸がんワクチン問題と、いじめ隠蔽問題との共通点とは?

 中学生や高校生の女子が、子宮頸がんワクチンの副作用によって、学業の中断に追い込まれたり、重篤な後遺障害のなかで学習が困難になっていたりするケースがあるという報道があります。

 これは、政府が推奨してきたワクチンの結果が、重篤な後遺症を招いたということがいえます。そして、この問題について十分解明されていないまま、政府は再びこのワクチン接種の推進に転じる方向性を打ち出していると、一部の報道で伝わっているところです。しかも、業者との繋がりが指摘されている委員がいる有識者会の出した結論に基づいて、政府がワクチン接種の推進に転じるというのであれば、日本の医療って一体何なのだろう、という事を考えざるを得なくなってしまいます。


 一部の報道とか、患者家族のブログなどを拝読していて分かる事ですが、子宮頸がんワクチンの副作用によって闘病生活を強いられている中高生の女子生徒たちが置かれている現状を見ると、このワクチンの副作用は本当に怖いものだということがわかります。政府が主導したワクチン接種の推奨の結果、副作用が発症してしまい、学習する機会すら奪われてしまう10代の人たちがいるという現実がそこにはあるわけです。子宮頸がんに対する不安というものは誰もが持っていると思うのですが、そのリスクについて真面目に考えてワクチン接種を受けた人たちが、副作用によって健康を蝕まれていき、学業の断念まで余儀なくされるという現実。あまりにも理不尽な出来事だと思います。


 しかも、子宮頸がんワクチンの副作用の患者の方々に対して、時には医師が「精神的なものだから忘れろ」みたいな感じの心無き言葉を発するケースもあるといわれています。また、患者が在籍している学校側の対応を見ても、病気欠席なのに「仮病」として処理するケースすらあるといわれています。

 そうした社会的偏見の中で、患者たちは一層つらい立場に立たされている現実。自らの身体に生じた症状のつらさだけでなく、社会からの容赦なき偏見のつらさというものに直面している患者さんたちの状況をみていると、本当に心が痛みます。

 なぜ政府は、副作用の患者たちの意見を十分に反映しようとしないのか、拙速にワクチン接種の再開を決めようとするのか、一部の報道とか市民団体の指摘によれば、業界団体と政府、そして医師たちの「利益」構造に問題があるという指摘もあるそうです。業界団体や医師は、ワクチンによって利益を得ようとする立場、そして政府は自らの責任を認めたくないという立場になっています。そのため、業界団体と政府、そして医師たち利害が一致してしまっているということです。そのため、副作用で苦しんでいる患者さんたちのことを「精神的なものによる症状」として決めつけ、要するに一連の副作用問題については患者さんたちに責任をなすり、その裏で、政・官・財の「利益」構造を維持しようとしている、そのため、問題が「どろ沼化」してしまって、被害者がつらい立場に置かれているという指摘もあります。



 この構造をみていると、別の社会問題でも同じ事がいえ、例えば学校におけるいじめ隠蔽問題と似たような構図のように感じます。学校のいじめ問題でも、いじめの責任をうやむやにしようとする学校側や教育委員会(行政)側の立場、そして、自らが関与したいじめについて覆い隠そうとする加害者たちやPTA、そして教師達の立場。立場は違えども利害関係が一致していて、ある種の「利益」構造が生み出されている事になります。そのため、彼らは立場は違えども、一緒になって結託していじめ問題を隠蔽したりとか、あとは事実関係を歪曲して、いじめ被害者に責任をなすり付けたりするといった事が横行しています。場合によっては、いじめと受験戦争との関係が強いケースですと、「受験のためにライバルを蹴落とす」目的のいじめも横行し、そこで加害者やPTAたちはいじめを「正当化」しようとする傾向にもあり、場合によっては学習塾もそこに関与する場合もあるわけです。

 私が受けたいじめの場合、私が学習塾に通わずに独学で受験に挑んだことを学習塾側やPTA側が快く思わず(PTA側は「受験のためにライバルを蹴落とす」目的のいじめを推進することで自分の子どもを良い学校に入学させようとする意図があり、また学習塾サイドから見れば、学習塾に通わずに受験に挑んだ私が受験に合格した場合「塾に通わなくても進学校に合格できる」ことの前例ができる、業界側からすればそのことを恐れたのでしょう)、そのため、知らず知らずのうちに、私は多くの人たちから「塾を馬鹿にしている、見下している」というレッテルを貼られ、それが、以前から起きていたいじめが更に拡大していく、エスカレートの引き金にもなった出来事でもありました。

 詳細について書くときりがないですが、私の実感として、学校のいじめ隠蔽も、行政と学校現場、そしてPTA、そして受験戦争に絡んだ内容のいじめについては学習塾業界も含め、要するに行政と教育業界、そしてPTAなどの利害関係者達が「いじめを隠して、事実関係を歪曲し、一連のいじめの責任を被害者に擦り付けよう」とする点では利害が一致してしまっていて、いじめの隠蔽がひどくなったり、一連のいじめに関連した心無き誹謗中傷などが地域などで流されたりする、ということも起きてくるわけです。いじめの被害だけでなく、事実関係が歪曲されて、見に覚えのない罪を着せられる事とか、誹謗中傷とかが流される事もまた、本当につらいものです。



 話が多少ずれましたが、話を元に戻すと、いじめ隠蔽問題における「教育行政、学校・教師、PTA・学習塾」の立場は、薬害問題についていえばそれぞれ「厚労行政、医師、医療業者」の立場に置き換えることが出来る、つまり、現象としては異なる社会問題ではあっても、構図としては同じ問題が指摘されるわけです。

 要するに、彼らは「それぞれの目的」は違っていても、「物事を隠蔽してうやむやにすることで利益を得る」点では利害が一致してしまい、癒着体制が起きてしまうということ。

 その結果として、一番弱い立場にある人たち(薬害問題で言えば、薬害被害をうけた患者さんたち、いじめ問題でいえば、いじめを受けた被害者)は、それらの出来事による直接的な被害のみならず、「癒着体制」の内部にいる人たちの保身や癒着体質によって引き起こされる、事実関係の隠蔽という問題によって、更に「二次被害」を受けることになるわけです。

 そして、物事をうやむやにしたいと意図する「癒着体制」の側についている人々は、物事をうやむやにするために、被害者に対して「気のせいだ」「忘れろ」みたいな言葉を平然と吐く傾向にあるということ。これもまた、いじめ問題においても、薬害問題においても、社会問題としては異なる現象とは言えども、構図としての「癒着体制」に取り込まれた人々が被害者に対して容赦なく発する、心無き言葉の傾向は共通しています。

 そして、いじめ問題の場合は義務教育や高校教育などを受ける中で起きた被害、そして先に挙げたワクチン問題の場合は政府が接種を推進した結果による被害、ということで、何れの問題も、国や社会によって推奨された事が要因で被害が大きくなっているという点では共通しています。そうなると、政府や国の責任は当然問われるべきなのに、政府や国は、「癒着体制」の側についてしまっているため、いじめ問題についても薬害問題についても、物事をごまかそうとしたり、被害者に泣き寝入りを強いようとしたり、あるいは物事を隠そうとしたりする傾向にあるといえます。



 物事の現象としては、いじめ問題と子宮頸がんワクチン問題は全く違う問題のように思えますが、癒着体制の内部にいる行政や政治家、業界団体などが、自らの利益ばかりを追求することにばかり躍起になって、その責任を取ろうともせず、むしろ物事の隠蔽とか、被害者に対する社会的偏見を助長することを画策してまでも利益を得続けようとしている、そうした構図が共通してみられるわけです。その結果、一番弱い立場の人々が泣き寝入りを強いられたり、取り返しのつかない被害を受けることになったりしている。つまり、本来は違う社会問題のはずの、いじめ問題と子宮頸がんワクチン問題という2つの問題は、やはり同じ構図が指摘されます。


 そして、現実問題として、身体的、精神的に大きな損害を受ける被害者たちがおかれた立場。いじめ被害を受けた人たちの中には不登校を余儀なくされるなど、教育の機会が不当に奪われている状況があり、薬害を受けた人たちも、闘病生活を強いられることで、教育の機会が不当に奪われている状況があるわけです。いじめによる不登校とか、深刻な病気による不登校が、学校側によって「仮病」と決めつけられ、本当の原因については学校側は頑なにごまかそうとする傾向にもある点で、いじめ被害者と薬害被害者とは、やはり同じ悩みをかかえている部分もあると思います。


 そうした立場におかれた、いじめ被害者と薬害被害者たちは、やはり学校教育を普通に受けることが難しいという現状に直面せざるを得ない場合もあると思います。そうした、諸々の問題に、今の学校教育は柔軟に対応できていない。そのため、学校に行けない事情をかかえてしまうと、教育の機会を十分に得る事は難しくなってしまう、そうした現象も起きてきます。

 そして、そうした困難な状況下にあっても、時間をかけながらでも自力で勉強に励もうと努力している人たちがいる事も事実です。一般の人より不利な立場であるがゆえに、一般の人と比べてペースが遅れていても、それでも努力を積み重ねている人もいます。そうした人々が、もっと十分に教育を受けることができるように、多様な学びのありかたを政府や国が準備するべきです。機会の均等を図る政策こそが、本来は「脱ゆとり」政策などよりも優先されるべき政策なのですが、その部分が本末転倒になってしまっているように思います。憲法の理念を尊重するなら、多様な学びのありかたを政府や国が準備し、学校に行けない事情があっても時間をかけながら自力で勉強に励もうと努力している人たちをバックアップしていく体制の構築こそが、求められるのではないでしょうか。
posted by ななこ at 04:29| 時事の話題 | 更新情報をチェックする
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