2014年07月29日

問題行動のサインを、学校が見逃さずに事前に対応していれば・・・

 多くの新聞やテレビなどで、長崎県佐世保市で起きた事件のことが大きく報じられています。女子高校生が同い年の高校生の生命を奪った事件のことです。


 佐世保市といえば、10年前にも小学生が学校で同級生の生命を奪った事件があったということもあり、教育現場では「いのちの大切さ」を教える取り組みをしていたらしいのですが、道徳教育の充実と言っても、結局は教師達による「形だけの自己満足」の教えにしかすぎなかった、ということが今回の件によって露呈した形になったのではないでしょうか。

 そして、こうした事件については報道以上の事は知りえないことではありますが、報道されている内容を見た限りでは、今回の事件を起こした生徒は、以前から動物を虐待したり、給食に異物を混入させるなどの問題行動を起こしていたことも明らかになっていて、もしこうしたサインを小中学校が見逃さずに事前に対応していれば、今回の事件が起こらずに住んだのではないか、ということを思わざるを得ない事態です。


**********


 こうした事件が起きるたびに、私が想起するのは、私自身の中学の時の出来事です。私の中学時代のときなので今から10年くらい前の話になるのですが、同級生の男子数人が、近所の農家の方が飼育していた鶏を刃物を使って虐待して、鶏を全滅させた、という出来事があり、当時、緊急学年集会が行われる事態になったわけです。あまりに衝撃的で悲しい出来事だったことが、強い記憶として残っています。しかも、学年集会があったといっても、学校の教師達は本題の話には触れず、この手のできごとが起こるとありがちな「いのちの大切さの話」すら説くような話もせず、この虐待事件とは全く関係のないというか関連性すらない話ばっかりになっていて(要するに、話の担当だった体育教師が個人的に好んでいると思われる、ある女性教師の英語の語学力について延々と語ってるだけの話になっていて、もはや何の目的の学年集会だったのか意味不明な感じになっていた)、いったい何の話だったんだ、と思いたくなるような学年集会だったことばかりが記憶にあります。学校の教師の対応がこのレベルでは、命を奪われた鶏たちの魂は浮かばれないなあ、と思って、さらに悲しい気持ちになったことが記憶に残っています。

 そして、このときの鶏虐待事件の犯人だった男子グループは、小学校6年の時に私と同じクラスだったということが共通点でした。私の通っていた小学校では、世間的な「刃物を持たせないようにしよう」みたいな風潮に逆行するような感じで、たとえば小刀を全員購入させて、鉛筆を削るときは鉛筆削り機ではなく小刀を使うこと、みたいな指導もあるほどで、その意味ではかなり守旧的な教育が行われていました。小学校の3、4年くらいの時期だったと思いますが、刃物を使うことに慣れていない時期に、刃物を使うことを少しためらっただけでも、教師から「ビビッているから悪い」「精神が弱いから悪い」みたいな感じで怒鳴られたりしたこともあって、私自身、こうした学校の方針にうんざりしたことが記憶にあります。要するに刃物を持たせる教育というのが、刃物の適切な使い方を学ぶという趣旨ではなく、「根性を叩きなおす」みたいな感じの趣旨のほうが前面に出ていたわけです。私自身、学校側のこうした教育方針には子どもながら疑問に思ったことがあります(私自身が現在20代なので、義務教育当時は90年代末から2000年代にかけての時期だったのですが、当時の感覚からしても私の通っていた学校の教育方針は復古調というか守旧的すぎるものだったと思っています。)。

 話を元に戻しますが、私の小学校時代、小刀を日常的に使おう、みたいな感じの空気が学校の指導方針として定着していて、そうした空気になると、小学校高学年にもなれば、従来なら小刀を使っていたものが次第にカッターナイフに置き換わっていったわけです。図工とかで、小刀よりカッターナイフのほうが使い勝手が良いということを考えた同級生達の間でカッターナイフを持つことが主流になっていき、次第に図工の授業がない日も、毎日カッターナイフを持ってくる同級生達が増えていった、ということです。

 こうして、同級生達の間でカッターナイフを持つことが主流になっていき、小学校6年のときには、私のランドセルが何者かによってカッターナイフで切りつけられるという出来事も発生したりしました。

 そして、要するに刃物を持たせる教育というのが、刃物の適切な使い方を学ぶという趣旨ではなく、「根性を叩きなおす」みたいな感じの趣旨のほうが前面に出ていたということは先に書いたとおりですが、「根性」の意味合いを何か勘違いして変な方向性に向かっていった同級生たちもいて、一部の男子たちのグループの人たちは、競い合うようにして、自身の腕をカッターナイフで切って文字を書いたりしていて、要するに「やせ我慢」や「自己犠牲」といったものを「美徳」と考えている人たちの間で「我慢比べ」みたいなことが流行し始め、しかも、そのときの出血の様子を私に見せ付けてきたりして嫌がらせをしてくる人たちも増えていきました。このとき、私が目を背けただけでも、問題の男子グループの人達は「ビビッているから悪い」「精神が弱いから悪い」みたいな感じで怒鳴ってきて、私は泣きそうになるまで追い詰められたことがあります。

 そしてこうした出来ごとが積み重なっていき、ある日の下校中に、私はある同級生からいちゃもんをつけられ、カッターナイフを突きつけられるという出来事も起きました。その後、その同級生から私の自宅に「謝罪」の電話がかかってきたものの、このとき私の親が私を電話口に呼ぶときの「○○ちゃん~電話よ~」と呼ぶ声が、相手の受話器越しに聞こえてきたらしいのです。そのため、「謝罪」目的で電話をかけてきたはずの同級生が、翌日にはその呼称を他の同級生に言いふらし、結果的に「○○ちゃん~電話よ~」という言葉ひとつだけで、私の家庭の事を「過保護」というように解釈する同級生やPTA関係者達が増えていき、そのため、暴力や暴言があるたびに「また、ママーにいうの?」という言葉が決まり文句的になっていって、その後、私は、高校時代まで、「○○ちゃん~また、ママーにいうの?」みたいな言葉で嘲笑される状況が続いていき、本当にいやなことばかりでした。

 話がそれましたが、小学校6年の当時、私にカッターナイフを突きつけてきたり、カッターナイフで威嚇行動的なものとかをとっていたりしていた男子たちの一部が、小学校を卒業して中学校になった後、先に述べた「鶏虐待事件」を起こしたわけです。農家の方が飼育していた鶏達の生命を奪った犯人となった同級生達のメンバーの顔ぶれを見ていると、小学校の時に私に対してカッターナイフを使って脅してきたりしてきた顔ぶれと一致するわけです。私に対して攻撃の矛先を向けていた同級生達が、その矛先を鶏に変え、鶏達の命をうばった、ということだったのだろうと思います。

 この経験から私が思うのは、何か残酷な事件を起こす人たちは、必ず「前兆」となる現象があって、たとえば残酷な動作をしたり、威嚇行動とかを起こしていたりすることもあるということです。また、動物などに向けられた「攻撃の矛先」が、いつ、人間に対して向けられるのかもわからないし、だからこそ、動物虐待とか、他人の描いた絵に勝手に残酷な内容の落書きをする嫌がらせとか、そうした「前兆」は見逃してはならないということがいえると思います。

 道徳などで「生命の大切さ」とかをいくら形だけで唱えても、それが形骸化してしまったとき、生徒達の多くは、道徳的な意味ではなく「国語の作文」とか「単なる呪文」のように捉えてしまう傾向になっていきますし、結局は教師達が「自分達は命の大切さを教えているんですよ」みたいなアピールを外部に対して宣伝しているだけで、しかし現実にはそれは「教師達の自己満足」とか「教師の出世のための『道具』としての道徳活動」ということにしかならなくなってしまいます。

 本当に「生命の大切さ」とかを説くなら、誰かの生命が奪われるような悲惨な事件が起きる前に、その「前兆」を把握した上で、問題行動を行った子ども達の心の闇とかを解きほぐすために教師が粘り強く話し合っていくというような地道な活動のほうが重要だと思います。

 同じことはいじめ問題についても言えることです。いじめ問題についても、私の経験上、今の学校現場の状況は酷すぎます。学校の教師が初期の段階で対応せず、話し合いもろくに行わないままに事態がずるずると悪化していって、結果的に事態が悪化してから、教師達はいじめを隠蔽するために事実関係を歪曲し、被害者に対していじめの責任をなすりつけていく、そうして教師達は自己保身に躍起になる、そうした状況が事態の悪化に繋がっています。教師達が、自己保身に躍起になるがあまりに、被害者をいじめから救うことを放棄していて、また加害者に対して適切に指導することも放棄している。これでは、教育としての体をなしていないとしかいわざるをえません。

 だからといって、単に体罰容認とか厳罰化(ゼロ・トレランス)という方向性に向かってしまうと、教師達の資質が伴っていない以上は、体罰容認とか厳罰化によって権限を強めた教師達が、その権限を濫用してしまうだけになってしまいます。教師達の自己保身の傾向が一層ひどくなり、たとえば「いじめを隠す」ために事実関係を歪曲して被害者に罪を着せるようなことも今以上に横行するし、加害者と教師とが結託して「数の力」で口裏あわせとかを行い、その過程において教師が加害者たちに「本当の事を言わせない」ために口ふうじをおこなったりすることも横行します。もちろん、被害者に対して、権力を使って泣き寝入りを強いるといったことが横行してしまう可能性が高まると言う事はいうまでもありません。体罰容認とか厳罰化にともなって教師の権力を強めるだけの考え方は、あたかも「教師が正しい」かのような、性善説に偏りすぎているようにしか思えないのです。

 しかし、だからといって厳罰化や体罰の否定というものが「いじめや問題行動に対応しなくても良い」という免罪符的な発想につながることも許されてはなりません。かなり前のことですが、何かの報道で「問題児を立ち直らせるために支える役目は周囲の子ども達だ」みたいな主張を繰り広げていた「有識者」がいたことがあって、これはひどい主張だと思ってびっくりしたことがあるのですが、確かに厳罰化や体罰容認といった方向性は、先に述べたように私は批判的立場ですが、だからといって、「問題児を立ち直らせるために支える役目は周囲の子ども達だ」みたいな主張は、結局は教師が指導を怠って子どもたちに「責任」をなすりつけているとしか思えないし、こうした主張がエスカレートすると、例えば現実に「問題児」が行っているいじめの加害行為の矛先が被害者に向かっていて被害者の人権が損なわれているのに、被害者に対して「加害者の不満の受け皿になれ」的な感じのことを教師が強要するような、いわば特定の生徒をスケープゴートにして不当に人権を抑圧するという手法も横行しかねません。これでは、大人の側が、被害者側にたいして「加害者のために、学級や学校のために泣き寝入りしろ、がまんしろ」ということを強要していることになるし、いわば、教師自身が被害者の事をサンドバックのように扱うことでいじめに加担していることに他ならないことになります。

 従って、体罰容認とか厳罰化でもダメだし、だからといって教師がいじめとか問題行動に全く対応せずに被害者に責任を擦り付けるような放任的なやり方はもっとダメだといえます。教師の権限を強めても、教師はその権限を濫用するだけだし、だからといって厳罰化や体罰の否定というものが「いじめや問題行動に対応しなくても良い」という免罪符的な発想につながることも許されてはなりません。いずれにしても、権力を濫用していじめを隠して口封じや事実関係の歪曲を行う手法で被害者を泣き寝入りさせているか、あるいは「放任」とか「信頼」とか「支え」といった「聞こえの良い言葉」の下に被害者をスケープゴートにして泣き寝入りを強要させているか、といった違いでしかなく、結局は組織や教師の保身によって被害者が翻弄されているという点では変わりがないためです。


 結局のところ、いじめや問題行動がおきにくいようにするため、そして、迫害を受けることなく教育を受ける権利の保障のため、もっと大きな範囲で言えば人間が人間として生きていく権利の保障のためにどうすればよいかということを考えるなら、個人主義を徹底させていき、例えば学級制度とか部活とかの廃止、そして卒業後の同窓会組織とかの廃止もあるべきです。個人を「組織」に無理やり帰属させようとするような発想を根本から断ち切り、なるべき「誰も加害者にならない、被害者にならない」ようにする、そうした個人のあり方が認められていく学校や社会になっていくべきだと思います。そうした個人主義を徹底させた上で、それでもなお起こりうる人間関係の軋轢とかは、当然ながら警備員とか警察が対応すべきですが、過度に人間関係のつながりを強要されたときの軋轢と比較すると、個人主義が徹底されている中でやむを得ず起きる軋轢の場合のほうが、問題の泥沼化という事態は防ぎやすいし、深刻な事件とか冤罪とかも比較的おきにくくなるものだと私は思います。「組織」や「友達関係」への隷属を過剰に強要している今の学校制度、社会制度こそが、問題の根源なのではないか、と私は思わざるを得ません。
posted by ななこ at 02:15| 時事の話題 | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。