2014年11月25日

「難関大学に合格したら100万円支給」とかいう制度は止めるべき。競争を煽っても学校の荒廃を生むだけです。

 教育評論家として著名な尾木直樹氏(通称・尾木ママさん)のブログで、「百万円もらって難関大学合格しても入学後バーンアウトする」という内容の記事がありました。

 尾木さんはこの記事において、明確にどの地域のどの高校のことについて、と言う事は明言を避けていましたが、尾木さんがこの記事の中で取り上げた学校というのは、鹿児島県の伊佐市の高校のことだと考えられます。現に、どうやら鹿児島の地元紙では11月24日付の新聞記事で「教育評論家の尾木氏がブログで『進路指導をゆがめかねない』と指摘した事で全国的に注目された」と明記した上で、伊佐市の高校の事について新聞記事にしていたようです。この高校では、旧帝国大学や早慶などの難関大学に合格したら「100万円支給」という制度を導入したということで、そもそもは同じ鹿児島県の別の学区の高校で「大学進学者に10万円を支給する」制度をスタートさせた事に対抗して導入したという側面もあったようです。


 まず、私の意見としては、この件については尾木直樹さんの見解に賛成する立場です。お金で進路を決めるのではなく、各生徒が自分でどのような目的で進路を選ぶのかということを純粋に考える環境のほうが大事です。その上で、難関大学であってもそうではなくても、学びたい学科を受験したり、あるいは就職希望者なら自分に合った就職を選択する、ということが大切なはずです。難関大学の実績ばかりを誇るために金銭的なインセンティブをつけるくらいなら、その予算は学校の設備を充実させる、あるいはいじめ対策のための予算に割り当てる、あとは副教材などにかかる費用(民主党政権で導入された高校無償化というのはあくまで授業代の話であって、副教材などは生徒の自己負担分となるのが現状)を自己負担ではなく無償化するための費用に当てる、など、各高校の環境の整備に当てるべきなのではないかと私は考えます。その意味で、尾木さんが指摘する『進路指導をゆがめかねない』との意見は正しい意見だと私は思います。



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 まず、この問題については私は尾木さんの意見に賛成する立場、つまり学校や行政側のやりかたには批判的な立場をとるということを前提で今日のこの記事を書き進めるということをまず前提にこの記事を読んでいただければと思います。


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 私自身は、鹿児島市内の中学を卒業してそのまま鹿児島市内の進学校に進んで卒業した立場なので、今回の件で話題となっている伊佐市などの地方部の事情については十分に把握している立場ではありませんが、ただ、鹿児島の場合は県全体として進学競争がもともと激しい土地柄ということは事実です。(なお、競争が激しい割に大学進学率が全国最下位(47位)という結果にもなっている、県民所得順位が上がっていながら大学進学率が低い点がさらに奇妙ではあり、地理的・経済的事情でより厳しい環境に置かれているはずの沖縄県より進学率が低くなっている、この要因は、私自身の意見として、個人的には「競争が激しすぎる事の裏返しによる妬み・同調圧力意識」の風潮が強いことが鹿児島県内の大学進学率の低さに繋がっていると考えています。)

 そのためなのか、私の出身高校は鹿児島市内であるにもかかわらず、地方出身の人が下宿したうえで高校に通っていたりするケースが意外と多かったように思います。そもそも、地方部の人たちは高校入試ではいわゆる「鹿児島学区(鹿児島市内の中学生が対象)」ではない学区外の枠となるのですが、学区外枠ということになれば一般入試の定員の1割ということになるので、競争率が激しくなるということで、地方の人たちが中学生の時に「鹿児島市内の中学の卒業生」という肩書きを手に入れるために鹿児島市内の中学に転校し、鹿児島市内の中学の生徒として「鹿児島学区内」の枠で受験するというケースもかなり散見されます。私の出身中学は鹿児島市南部・谷山地区にある、とある地域の公立中学だったのですが、それでも「学区外逃れ」のために鹿児島市外の地方出身の中学生が転入生として私の出身中学に転入してくるケースも多かったものです。10年ほど前に中学生だった私の世代ですらそうだったのですから、この傾向は今の世代もあまり変わらないものだろうと私は思います。


 地方出身の生徒が市内に転校する事は個人の自由でありますが、逆に言うとそれだけ競争熱が激しすぎる、学区制が「有名無実化」しているのもまた事実だという事でしょう。それだけ鹿児島市内の「名門」といわれる進学校への「信仰」が根強く、過大評価されているのも事実なのかもしれません。


 また、こうした受験熱の根強い県だということもあって、中学における受験競争というか順位の競争も激しかったため、私の出身中学では、「いじめて他人を蹴落とそう」という趣旨のいじめがかなり横行していました。私自身はそのターゲットにされていました。しかも、中学時代の教師がいじめを隠蔽するために私に対して事実無根の罪を着せたあげく、今度は「成績が良いから嫌味なんだ、嫌味と捉えられて当然なんだ」と教師が決めつけてきたり「成績が良いから叩いてみんなと同じにしないと教師が困るんだ」みたいな発言が平然と飛び出してくる学校現場だったりしました。私が経験した学校教育はまさにそんな状況でした。私の発言が捏造されて、私が言っていない発言が学校側や加害者側によって捏造されて、私にとって見に覚えのない罪を着せられるといったこともありました。

 私が学習塾に通わずに自宅での受験勉強で高校受験に挑むことを決めたときでも、周囲から「塾を馬鹿にしているのか」といわれ、そこから、私が発言していない内容があたかも私の発言であるかのように流布される状況。学習塾の教材の事、模擬試験の事、塾の方針の事とか、それらは私が知るわけもなく論評も出来ない内容なのに、同級生や教師達は、あたかも私が塾の方針とか模擬試験とか教材の事を馬鹿にしているかのように話を捏造してきたり、それらの話が拡大して、あたかも私が進研ゼミなどの通信教育とかのことをバカにしたかのような話まで捏造されたり、ここでは書ききれないような様々な暴言、誹謗中傷が飛び交う学校時代でした。それらの話の中で「塾に入っていないのに塾の問題を見ただろう、塾代支払え」といわれて、金銭の要求とかが絶えなかったりした時期もありました。

 塾が云々とかが問題になる以前からも、中1では、授業中の発表とかについて「成績がいいから、授業中の発表は成績がいいのを見せ付けているんだろう、うちの子を馬鹿にしてるんだろ」とPTA(主に加害者の保護者たち)から糾弾され、私自身と、あとは授業中に発表を促す授業展開をしていた特定の教師の名前が挙がり、その両方がPTAからのつるし上げ対象になり、結局は授業中の発表を禁止される事態になりました(そのため、学校側としても多くの教師が授業中の発表を促さない授業方針に転換した結果、授業が一方通行になって学級崩壊を招いたと思います)。その中には、私が発言していない内容、たとえば「この問題はテストに出ますか」といった内容をあたかも私が発言したかのように学校側とPTA側が話を捏造してきて、私は発言していない「問題発言」をでっちあげられて糾弾されたこともあります。

 他にも、「勉強を教えないから不親切」と教師達から決めつけられて、同級生達の頼みごとに対して「言いなり」になることを強いられたこともありますし。その結果、同級生達は私の教材やプリントを借りても返さないとか、決められた日にわざと持ってこなかったりとか、そういう嫌がらせもひどくて、私は教材の提出が遅れたこともあるし、自宅で使ってる教材がなかなか返却されずに困ったこともありますし。私自身に、別件で所用があって同級生の頼みごとを断った場合でも、問答無用で「勉強を教えなかったと苦情が来た」「怒鳴られたと苦情が来た」などといったことを教師から決めつけられて一方的に糾弾されるし。

 それに、「勉強を教えないから不親切」と決めつけられ、だからといって勉強を教えたり教材を貸したりしても、そのことだけで異性関係の根拠なき噂が拡大して、あたかも「ふしだらな人間」であるかのように、事実無根の酷い噂とかが広まり、嫌がらせとかもひどくなったり。

 それに、勉強を教えろといってくるのは教師とか同級生たちなのに、別件の時になると「勉強の話をするから嫌味な人間」として私を糾弾してくるわけです。勉強教えろといってきたり、勉強の話をするなと言ってきたり。いったいどっちなんだといいたくなりますし、それを教師側に問うただけでも「反抗した」とみなされて糾弾されたりするわけです。また、「勉強の話をするな」といっても、そもそも「勉強の話」の定義そのものが曖昧で、たとえば授業に関係がない事、行事とかで時間が遅れそうになって、予定時刻が押しているということをちょっと言っただけでも「勉強の話すんなって言っただろ」みたいな暴言を言われる状況。彼らの言う「勉強の話」というのは、イコール「真面目な話全般」ということなのかもしれませんが、もとをただせば「成績がいいから嫌味だ」というレッテルから、そこまで話が発展してしまい、私が何か口を開けば暴言扱いされ、だからと言って口を閉ざせば「無視した」「友達を作る努力とか誠意が見られない」みたいな事でまた教師から糾弾される。他にもいろんなことがあり、テストの成績の事、5教科とか9教科の成績の解釈の事、あと、私にとって見に覚えのないカンニング疑惑がでっち上げられたりとか、ここでは書ききれない事もたくさんあります。「がり勉だから嫌味だ」「まじめすぎるから悪い」と教師から言われ、校則の服装を守っていることですら「糾弾」の理由とされる状況もあり、正規の校則と教師側の校則への解釈とのダブルスタンダードのなかで、私も私の親も、非常に苦慮しましたし、しかも、中学の事であるはずにもかかわらずこの話が小学生にまで広がっていて、中学の時には、下校中に小学生から校則のことを揶揄する歌までつくられて(要するに、私が校則を守っていることを揶揄するあだ名が中学校の中で既に広がっていたのが、小学生にまで伝わっていたらしく、そのあだ名が小学生の中で歌として広まっていたようです)、一方的に罵声を浴びせられたこともあります。


 他にも様々ないじめがあり、このような感じで、私自身、中学時代には様々ないじめを受けましたが、中学でいじめられていたという事を踏まえると、私としては、同じ中学の出身者が多く集まると見込まれる谷山地区周辺の高校を選択せず、鹿児島市中心部の進学校に進学することにしました(高校名はこの記事ではあえて挙げませんが、とりあえず県内トップと世間的に言われている学校です)。私が卒業した高校は世間的には過大評価されているというか、公立とはいえ共学校だったために女子の場合は某私立男子校と同程度の学力の人たちの受け皿として機能している側面もあるため、「世間的」には名門とか言われていたわけです。私自身は実家から通学できる距離だったため実家からのJR通学でしたが、市内出身ではない「地方」出身者の人たちは下宿して高校に通っていたのでしょう。しかし、実際に入学してみると、私の個人的な感想としては、「果たして、地方の出身者たちが下宿してまで通う価値のある学校なのか」と考えたときに疑問に思わざるをえない感じの学校だったように思います。

 というのも、進学至上主義のせいで管理教育が進み、逆に言うと進学ばかりに目を向けていていじめ問題への対応は全く行われない、いじめがあっても見てみないふりをする教師が多いわけです。私の場合、同じ中学の出身者が中学でのいじめの流れを高校に持ち込んできたため、結局高校でも中学と同じようないじめが発生したのですが、教師は見て見ないふりばっかり。最も分かりやすいのは「私語」にたいする対応。いじめの内容を含まない私語も当然存在するのですが、いじめの内容を含まないものであっても一般的には「私語」は当然注意されるものだろうし、現にいじめに結びつかない内容の「私語」について、教師が当然のように注意することはあるわけです。しかし、明白にいじめの内容を含んだ私語、いじめにつながる内容の私語の場合だと、教師は私語をしている生徒に対してまったく注意しなくなる、ということがかなりあるわけです。いじめがエスカレートすると、次第に学校行事でも酷い目に遭う事が多くなり、私の場合だと修学旅行やクラスマッチといった行事でも支障をきたす程、学校生活がひどいものだったのです。高校時代は、同級生らによって、同性愛者疑惑とか、カンニング疑惑とか、ホームレス疑惑とか、いろんな「疑惑」も捏造され、その一連の疑惑に起因する嫌がらせもかなり横行しました。酷いときだと、休み時間に、ある男子生徒に羽交い絞めにされ、それを見ていたほかの生徒や教師が嘲笑していた、という出来事もあって怖い思いをした事もあり、個人的には、今でもこの出来事を思い出してしまうだけでも吐き気を催す事があったりします。(高校時代に受けたいじめや体罰などについてはこのブログでも以前に何回も書いていますのでここでは繰り返して書くことは避けたいと思いますが…)。


 そして何よりも、教師の権力が強いため、特定の生徒に対して体罰とか理不尽な見せしめとかを行うケースが多い(要するにスポーツ名門校で行われている体罰の「勉強版」というような感じもある)などの実態もあります(以前のこのブログでもこれらの事については何回か記事にした事がありますが)。教師からターゲットにされてしまうと、真面目に宿題や予習をやっていても、「予習不足」と決めつけられて怒鳴られる、何回も授業中に当てられて一回でも答えられなければ「サボリ」と決めつけられて見せしめのようにされる実態もあります。一方で、教師のターゲットにされない立場の生徒は、いくら予習とかをサボっていても、教師から当てられることも無ければ「予習していない」ことが「ばれる」ということもないために平然と「予習をサボる」人たちも出てきたりして、そうした人たちに対して教師はあまり注意しないこともあり、「サボリ」自慢すらしてくる人もいたほどです。

 真面目にやっていても見せしめ的に酷い扱いを受ける立場の生徒と、見せしめにされないことをいいことに不真面目な態度をエスカレートさせていく生徒。この意味不明な「格差」が形成されるのはあまりにも理不尽です。教師による理不尽な差別の結果、理不尽な「スクールカースト」が形成されることも事実です。進学指導に名を借りた管理教育の様相が強まればそれだけ教師が横暴になり、酷い事が横行するわけです。

 私自身の経験から言うと、何かの分野で「名門」といわれる学校では、都合の悪い事は封じ込められ、一方で、「この学校のやる事だから全部正しいのだ」とか「この学校だから体罰やしごきは許される」という世間の風潮の中で学校や教員を擁護する人たちが多いということもいえ、学校の中での人権侵害行為が社会的に黙認されている傾向にあると思います。私の出身高校のようないわゆる「進学校」であっても、あるいは、別の分野ではありますがいわゆる「スポーツ強豪校」でも、目指す分野は違ってもいわゆるブランド主義、権威主義があったりして、そこから学校の中での人権侵害行為が社会的に黙認されている傾向が強くなるのは自明なのです。私自身は進学校という場所で多感な時期を過ごし、その酷い状況を目の当たりにしました。


 高校の実態についていろいろ書きたい事はあるのですが、要するに進学校ということで競争熱が激しいと、それだけ進路指導とかに歪みも出てくるのも事実で、進路がどうとか以前の問題として、いじめなどが横行する学校において、落ち着いた学びは実現できません。中学においても高校においても、競争熱が激しすぎる事によって、「自分自身のための学び」というものが歪められてしまう結果を生むだけです(こうしたことを書くと「自分自身のため」イコール「自己中」というようなことを言う人もいるかも知れませんが、何かを学ぶ上での学びの自由とか学びのあり方を自分で決めていくための自己決定権のことまで「自己中」とされてしまう風潮に私自身は違和感を覚えざるを得ません)。




 以前、私はこのブログで、競争教育の激化が、「本来の学業」に集中できず、不毛な「権力闘争」に振り回される結果を生むのではないかという題で競争教育の不毛さについて書いたことがありますが、繰り返し書くと、私の経験上、「学業そのものよりも、権力闘争的な人間関係に疲れてしまう」状況を生むのが「競争教育」の問題点だということを改めて述べたいと思います。競争を煽ったところで、例えばいじめ対策や、個人の特性にあった学び方を支援する仕組みとかが整備されない限りは、学力向上の効果は期待できず、むしろいじめの激化とか、不毛な「権力闘争」を生むだけです。それは本当の意味の「学び」を見失わせる事に繋がります。そのことが学力の向上に繋がるかと言えば私自身は批判的にならざるを得ません。


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 色々と書いたところで、話を冒頭の話に元に戻しますが、進学指導の実績を伸ばすために「上位層」にたいして金銭的なインセンティブを付与するやり方は、「上位の人をいじめて蹴落とす」というような形のいじめの原因に繋がる(金銭的なインセンティブが無い状態ですらこの傾向が強いのだから、そこにお金の問題まで絡めてしまうとさらに酷いいじめになることさえ想定される)し、上位の人にとっては、いじめなどに起因する「勉強以外のストレス」への対応のほうにエネルギーを費やさざるを得ず、落ち着いた学びも実現できないわけです。また、いじめっ子達にとっても、「いじめて誰かを蹴落とす」ことをやったところで自分達の学力が伸びるわけでは無いのに、いじめという不毛な行為に手を染める、仮にいじめっ子達の中でいじめをやめようとした人たちがいたとしても、結局は「集団の同調圧力」の中でいじめを止めることは出来ない人たちばかりになっていったりするわけです。そこに「競争教育に起因するストレス」などのファクターが重なれば更にいじめがひどくなるだけです。


 成績で上下ということを言いたくはないし、成績のみで人間の価値が決まるわけではないということを前提で申し上げますが、客観的な結果として出てくる成績にはどうしても上もいれば下も出てきてしまうわけですが、競争を煽るだけの教育は、いわゆる「成績上位」の人たちにとっても「成績下位」の人たちにとっても「誰も得しない」結果になります。要するに、学校現場の荒廃が進み、それが具体的にはいじめや体罰などの形で露見していく、それが成績の上下に関わらず、落ち着いた学びというものを阻害する要因となることは明白です。問題視されるべきなのは進学実績ばかりを誇ることに躍起になり、いじめ対策を怠ったりいじめを隠したりする傾向が、競争至上主義の激化によって強まっていくという現実です。各学校が、その学校の「世間体」というかイメージばかりを気にするようになると、いじめや体罰が発生してもそれを隠す事に躍起になる教師が多くなるだけではなく、要するに学校の「実績作り」の道具として生徒が「動員」されてしまうということにも繋がってしまいます。そこで「画一的な価値観」が生まれてしまうと、違う考え方を持つ生徒が馬鹿にされるようになったりして、そうした価値観の問題でもいじめの原因につながったりすることも懸念されます。それに、生徒が目的意識を持って学んだり進路を選んだりするという概念が欠落したまま物事を決めていく傾向が強まってしまい、自分の特性や個性というものをふまえないまま在学中の学習を無理に続けたり、卒業後の進路を無理に決めてしまったりすることにもつながってしまいます。それが健全な事なのかと言えば、私は疑問に思わざるを得ません。


 もちろん、私の学校時代に目の当たりにした事が他の地域でも起きると一概に言えるものではない、ましては報道にあるような「県庁所在地外」の地方部の学校の場合は事情が異なるだろうということは承知の上ですが、しかし、競争教育が行き過ぎると、競争に起因するいじめによって「学ぶ機会そのものが失われる」あるいは「生きることすら困難になる」生徒が出てきてしまうことは明白で、現在でも多くの中学や高校でこうした問題が起きているわけですが、そうした状態では、教育の機会の平等は実現できていないということになります。また、競争教育が行き過ぎとなる背景には、特定の画一的な価値観しか認めない傾向が強まるが故に、その価値観を満たすための椅子取りゲーム的様相が強まるということがあるわけで、その先にあるのは組織内部の「全体主義」と「管理教育の激化」、そして「全体主義の中で起きる排他的風潮に起因するいじめ」といった現象が懸念されるわけです。

 従って、特定の難関大学の進学実績ばかりに価値観を置くのではなく、あるいは管理教育的なものを過大評価するのではなく。生徒個人個人の、学ぶ機会を平等にしたうえで生徒個人個人が伸びていくためということに力を入れるべきです。そのためには、多様な生徒の個性や特性に合った教育の環境の充実とか、あとは教育環境の荒廃を招くいじめや体罰といった人権侵害を防止するための施策とかに予算をかけるべきです。

 競争を煽るやりかたで、学校の「実績作り」の道具として生徒を使うために予算をつぎ込むやり方は、結局は「組織」としての学校のイメージ作りに終始しているだけで、そこには、生徒個人の人権とか個性とか学ぶ機会とかいう観点が完全に欠落しているようにしか思えません。本当の意味での学力向上を掲げるなら、あるいは魅力のある学校を作りたいと考えるのであれば。全体主義的な空気とか排他的風潮に起因するいじめを招くリスクの高い競争教育・管理教育の様相を強めるやり方は即刻やめるべきだと私は思います。

posted by ななこ at 03:32| 受験と学校 | 更新情報をチェックする
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