2015年08月01日

岩手県矢巾町のいじめ事件から考えること(2)普通の「嫌なこと」と「いじめの苦しみ」を同列に並べるな!いじめ被害者たちは、真剣にこの苦しみと向き合って頑張っているんです。


 先日から報道等で述べられているように、岩手県矢巾町で、中学2年の男子生徒が、いじめを苦に自らの命を絶った事件が多くの波紋を呼んでいます。そうした中で、矢巾町教育委員会が一連のいじめについて報告書を出したことが報じられていますが、この報告書の中で、明らかにいじめとしか思えない事案について、教育委員会がいじめとは認定していない内容のものが多くありました。教育委員会や教育関係者の「いじめ」に対する認識の軽薄さが改めて露呈したものだと私は思います。



 また、矢巾町の教育長の発言の中で「嫌なことも跳ね返す力を養わせるのも教育」というような、信じられない言葉が飛び出したことも問題となっています。この教育長の発言は、いわば「いじめ」という犯罪行為を「教育目的」の名の下に正当化しようとし、被害者に対して責任転嫁しているものとしか考えられません。私としては、この教育長の発言に対しては、極めて憤りを感じざるを得ません。


 私自身、いじめ被害の経験者ですが、自分の経験から言えることは、そもそも「跳ね返せるレベルの話」なら、誰も教師なんかに相談もしないし、誰に言われるでもなく、一人で自己解決すると思います。

 しかし現実のいじめはそんなに簡単な話ではないわけで、いじめによって、心身に極めて重大な危険が及んでいたり、学業や行事、生徒会活動など日常のあらゆる活動に支障が及んでいるなどの問題があり、一人では対応できずどうしようもないからこそ、被害者側としては教師に対して何らかの対応なり助けを求めるのではないでしょうか。いじめ問題は、単なる「嫌なこと」で片付ける事ができないレベルの話です。

 単なる「嫌なこと」で片付ける事ができないレベルの話。それは、生命の危機をも感じるような極めて残酷な現実です。そうした現実もわからずに(あるいは、分かっていながらも、あえて知らないふりをして)、わけの分からない精神論ばかりを振りかざす教育委員会や教師達というのは、絶対に許せないです。


 また、いじめの被害に遭うという事は、単に生命の危機をも感じる、日常の暴言や暴力のつらさというだけでは語ることが出来ない苦しみもあるわけです。

 要するに、普通の人が日常生活の中でおきうる単なる「嫌なこと」について、普通ならば自己解決で済ませることが出来る用事ですら、いじめという問題がおきてしまうと、それら全てが困難になってしまうという側面をも持っています。例えば生徒会活動(係活動も含む)の仕事とか、給食当番とか、掃除とか、行事とか、あるいは教科書を借りたり、連絡事項を伝達したり、日常の会話をしたりするといったことも、そうした日常の学校生活のあらゆる場面において、いじめに起因する(いじめの一環としての)妨害行為や嫌がらせなどが起きてしまい、その結果、いじめによって全ての活動が困難になる、つまり学校生活のあらゆる活動が事実上困難になってしまい、日常の学校生活に支障をきたすレベルになってしまうわけで、そのことがいじめをより深刻なものとしてしまっているため、いじめ問題は、単なる「嫌なこと」で片付ける事ができないレベルの話といえるでしょう。



 ちなみに、教育評論家の尾木直樹さんも、この「嫌なことも跳ね返す力を養わせるのも教育」とする矢巾町教育長の発言にについては自身のブログのなかで批判していました。尾木さんは、この教育長発言について「いじめ問題の認識が30年前のまま」と指摘したうえで、「いじめは百パーセント加害者が悪いのです」と述べ、教育長の発言について厳しく批判しています。

 私も、この論点については尾木さんの意見に近い立場ですが、ただ、私の経験上、私自身の小学校時代(15年ほど前)~中学時代(10年ほど前)ですら、いじめについて「弱いから悪い」みたいな認識がまかり通っていたし、私の時は、周囲の大人も、これにほとんど異論を唱えない状況で、あたかもそれが普通の認識であるかのように考えられ、私自身だけでなく私の親も教師やPTAなどから酷くバッシングを受けた経緯もあり、私の場合は地域的にも孤立していた経緯もあります。

 要するに、私に言わせれば、尾木さんのいう「30年前の認識」は、残念な事に、私の小学・中学時代だった10数年前とかでも広く蔓延っていた認識というのが現実だし、あるいは矢巾町の事件があった2015年現在でもこうした認識が未だにまかり通っている現実が改めて浮き彫りとなった形だと私は思います。尾木さんのいう「30年前の認識」というのは、要するに保守的な価値観が蔓延る地域では、現実には未だに亡霊のように存在している認識なのだろうし、そうした認識はどこかで改めていかなければ、再び同じようないじめが繰り返されるだけです。まずは、教育界、そして地域社会も含めて、社会総がかりで、いじめ問題について、深刻な実態と向き合い、被害者の心身に危険が及ぶ深刻な問題として受け止めていき、被害者の人権を守っていくことの重要性を共有し、そして「いじめは百パーセント加害者が悪い」という、法治国家として当然もつべき価値観についても認識を深めていく取組みが改めて重要なのではないかと私は思います。


 今日も長文の記事となるうえ、書きたいことを文章にしようとしても、なかなか言いたい事をうまく文章として表現する事が難しいほどの複雑な話なので、ブログ記事としてはグダグダかもしれません。私自身、この記事の文章を読み直しても、自分が書きたいことの10分の1も伝わっていない記事だし、読みづらい文章かもしれませんが、その点はご容赦いただきたくおもいます。


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 私自身も、いじめ被害の経験者として、やはり「嫌なことも跳ね返す力を養わせるのも教育」みたいな守旧的な価値観を押し付けられ、非常に苦しみました。私の場合は、鹿児島市南部の某所で義務教育時代を過ごし、きわめて保守的な土地柄の中で育ったのですが、鹿児島の場合は、西郷隆盛のような「強い人間」が美徳とされ、いわゆる「郷中教育」が礼賛されている土地柄ということもあり、いじめ問題についても「弱いから悪い」みたいな事ばかりいう大人が多く(しかも「弱いから悪い」という意見に異論を唱える大人は、小・中学生時代の私から見た限りではほぼ皆無というレベル)、何よりも、教師や地域の大人たちがそうした態度だからこそ、いじめの加害者たちは「強ければ何でもしていい」「仲間が多ければ何でもしていい」と勘違いして、暴力や暴言がかえってエスカレートし、歯止めがかからなくなる状況になっていった感じです。(なお、私の経験から言えることとして、鹿児島の「郷中教育」で掲げられるスローガンの中に「負けるな」「いじめるな」というような表現があり、小学校の時にはそのスローガンが廊下に張り出されてたりしていたほどですが、現実には学校の中でいじめがあっても、教師側が「これはいじめではない」と一方的にみなし、逆に「負けるな」の言葉ばかりを前面に押し出す形で、要するに「やられたらやり返せ」と言うような事ばかりをいう大人が多く、要するに「いじめに対していじめで返せ」と言わんばかりの教育が普通にまかり通っていたため、結局は被害者に責任を転嫁する論理が世間的に蔓延っている状況のまま、結果的に現実に起きている暴言や暴力については教師は何も対応せず保身に終始し、結果、いじめが激しくなっていく、その連鎖が続いて学校が荒れていく、というのが、私が小学校や中学校で実際に見てきた学校の現状でした。)

 そうした環境のなかで私が実施に経験したこと。小学校時代、私が同級生達から暴力とかを受けて怪我をしたりすることがしばしばありましたが、それでも、加害者に対しては何も注意なり指導が行われるわけではなく、むしろ、被害者のほうが「弱いから悪い」という理由で、私が教師から執拗につるし上げられるわけです。

 あるときには、一連のいじめ問題とは関係のない時のことですが、私が朝の会で質問した事について、教師が何を気に食わなかったのか分かりませんが、いきなりクラス全員を理科室に連れ出し、そこで私は教卓に呼び出され、「お前はさっき俺になんつったかよ(「何と言ったのか」という意味)」みたいな恫喝的な言葉を浴びせられ、そこから1時間、理由も不明なまま「弱いから悪い」みたいな事ばかり言われて、みんなの前で、本来なら任意参加のはずのスポーツ少年団への加入を強要されそうになり、暴言を浴びせられ続ける、そうした状況に私自身直面した事があります(もちろん私は教師からの「強要」に対して拒否し続けましたが、教師の立場から見れば私は「反抗児」とみなされたのでしょう。)。ちなみに、教師は私の自宅にも電話をかけてきて「弱いから悪い、少年団に入れ、どうせ中学になっていじめられるんだから、どうなっても知らんぞ」みたいな脅しの言葉を私の親に対して電話で述べたという出来事もありました。

 教師が私に対して何かイチャモンをつけてくるとき、大体出てくる言葉のパターンは決まっていて、「お前の言う事は正論だ、しかしそんなのは日常茶飯事なんだよ!」という話の次に「精神が弱いから悪い、スポーツ少年団に入れ」と執拗に迫り続けるという感じでした。時には「堅物だから悪い」といった、私の人格を否定するような言葉も浴びせられる状況でしたし、「“や○ざ”になれ、なれないなら、弱いから悪いんだ」というような、いわば反社会的勢力を正当化するような発言が教師の口から飛び出すレベルでした。

 そして、教師達は、私のことについて「弱いから悪い人間」「弱いからいじめられるんだ、だから弱いから悪いんだ」という事を必死にアピールしようと躍起になっていて、小学校の場合だと、席替えの事でも「○○(私の名前)が泣きべそかいてたから座席を他の人と交換してやった」というような事実無根の話を周囲に言いふらしていたり、私が日常会話の中で何気なく発言した「中学校になったら学校が家から遠くなり、通学路が長くなる」という趣旨の言葉を教師がどこからか聞いてきたらしく、教師は私の発言を曲解して解釈し(要するに「距離が遠いという事をアピールしているぶりっ子だ」みたいな、意味不明な解釈で教師側が凝り固まっていたようです)、それを根拠として「甘え」とみなして個人攻撃を加えてきたりしてくるレベルでした。教師が日常的に私に対して「弱い人間」というイメージ付けに躍起になっていて、そしてクラスの中で何らかの校内暴力とかがあるたびに、今度はその「意図的に付けられたイメージ」を根拠として、教師が私に対して「弱いから悪い」と言い続ける、そして暴力や暴言などの加害者には何も注意しない、という事が繰り返される状況でした。こうして、私に対する暴力や暴言が授業中ですら発生していて、そのたびになぜか私が担任から怒鳴られ続ける、そうして理不尽なことが多くなりました。私は真面目に授業を聞いていても、授業中ずっと怒鳴られたり、教卓の前で立たせられたりすることが多くなり、私としても本当に疲れました。


 そうした状況のまま、中学に進学し、学校がより一層荒れる状況が続いていきました。もちろん、いじめはエスカレートし、小学校とは比べ物にならないほどにまでなっていきました。以前にも書いたように、中学では小学校とは比較できないほどの激しいいじめを受け、さらには中学校側がいじめを隠すために、私がやってもいない、見に覚えのない問題言動等を学校側がでっちあげてきて、私の同席のないところで私の親だけを呼び出して学校側が私の事を中傷する、という出来事も起きるほどに話が泥沼化したのですが、そこで飛び出してきた話のなかにも「弱いから悪い」論に基づくと思われるものがたくさんありました。

 中1の時の担任は体育教師だったのですが、教頭や学年生徒指導担当の教師と結託して、私の親を呼びつけて、私の事について「体育の授業中、ボールをビビッているからわるい、オドオドしているから悪い」と言ってきたり「他のクラスの教員から、日曜日にビビッて歩いているのを目撃されているんだ、そんな態度だから悪いんだ」みたいな、いじめの件とは関係の無いはずことを言ってきて、要するに教師達にとって都合の良い「弱いから悪い」論を私の親に対して押し付けてくるようなこともありました。

 体育の授業中、試合中に私に対して強い力でボールを意図的にぶつけてくる生徒がいたりして、私自身も怪我をしたりしたことは事実です(酷いときだと、私は顔面にボールをぶつけられて鼻血を出したことがあるほどでしたが、私が鼻血を出した事さえもいじめっ子達から「変なことを想像しているんだろ」と一方的に解釈されてさらに酷い誹謗中傷が流布された程の経験があるほどです。また、鼻血を出すほどには至らなくても、ボールを意図的にぶつけられて打撲レベル程度の怪我をすることはしばしばありました)が、私が他の人から意図的にボールをぶつけられて怪我をしていたことを根拠として、教師達が「ボールをビビッているからわるい、オドオドしているから悪い」みたいな事を言ってくる、その考え方が全く意味不明です。(ボールの件については、実は私の父親は幼少期にスポーツの試合中に大怪我をした経験から、野球のボールにトラウマがある経験があり、私の父親はその経験を教師に話す形で「大人になっても克服できない事もある、ましては(私が日常経験しているような)意図的に強く当てられたボールならなおさら怖いのではないか」と言って教師に反論したそうですが、教師達は聞く耳持たず、というような感じだったようです。)

 また、日曜日の外出の件についても、私としては「ビビッて歩いている」つもりは無かったのですが、もし「ビビッて歩いている」のであれば、それはいじめっ子達に絡まれるのではないかという怖さ(休日に絡まれる場合だと、財布とかを持っていることが多いためにいわゆる「カツアゲ」が起こりやすいのが実態です)があったことは事実です。あるいは、当時、外出していることが他の同級生らに知れたとき、ありもしない「目撃談」がでっち上げられて、例えば、単に家族とスーパーマーケットに買い物に出かけただけでも、それが同級生らの目に止まっただけで、学校では「ゲームセンターに入り浸りの不良」とか「異性交遊が激しい、遊び人だ」というような根拠無き噂になって、そのことが暴言や暴力のネタにされてしまい、収拾が付かないほどの話になっていく、ということが結構多く、そのため、私自身、知らず知らずのうちに外出中に周囲の目を気にしていたことは否定しません。しかし、そのことを理由として、教師達が一方的に私に対して「ビビッて歩いているから悪い」というような事を一方的に言ってくるのはおかしいのではないでしょうか。絡まれるリスクとか、「目撃談」が出た後に起こる誹謗中傷や嫌がらせなどのことについて、教師達は何も対応しようともせず、いじめを隠す事ばかりなのにもかかわらず、私に対して「ビビッて歩いている」と決めつけてバッシングを加え、逆にいじめっ子達に対して何も注意しようともしないのは、あまりにも筋違いにもほどがあると私は思います。なお、私自身、教師から一方的に「ビビッて歩いているから悪い」という「生徒指導」が行われて以降、休日の外出はなるべく控えるようにしました。そうしなければ、平日の学校生活において余計なトラブルを抱え込むリスクが高かったためです。

 また、当時、日曜日の外出といえば、私はほとんど祖母の介護の関係で家族で祖母が入所していた老人ホームに訪問したり、介護に参加するくらいのことしか行っておらず、教師が仮に私を目撃したとすれば、それは帰りに寄ったスーパーなどでの買い物の現場だろうと思われます。教師達は、日曜日に私が祖母の介護に参加することを快く思わず、PTA関係者の発言を引用し「休日に同級生と遊ばないから悪い、自分の身内には優しく出来て、同級生らには優しくしないのか」と言うような事をいってくるレベルでした。これは教師達の要求と言うよりは、いじめっ子の親のなかの一部のモンスター的な人たちの要求がそのままPTAのコンセンサスになってしまったような感じだったみたいですが、モンスター親みたいな人たちの意味不明な主張に教師が同調して、私や私の親に対して、休日の過ごし方の事にまで何かとイチャモンをつけてくるレベルだったというのは変わりありません。実際には、私が同級生と一緒に過ごしても仲間はずしされるか、金銭を脅し取られるかのいずれかなのです。だからといって家族と一緒に外出しても、今度は変な噂話や目撃談がでっち上げられて、学校内で激しい暴力や暴言に繋がっていく現実もあるのです。それなのにもかかわらず、教師達は「休日に同級生と遊ばないから悪い」といったり、「(家族と外出しているとき)ビビッて歩いているから悪い」といってきて、さらには「成長の段階で、家族に反抗して友達と過ごすのが普通だ、成長しないから悪い、反抗期が無いのがおかしい」みたいな事を言ってくるレベルでした。いじめの影響で「とりあえず安心して外出できる環境」という基盤がもはや崩されている中で、成長の段階が云々とか、反抗期が無いから悪いとかいう論理を持ち出してくる教師達の主張は、あまりにも酷いものだと私は思いますし、教師たちが休日の過ごし方の事にまで、いじめっ子にとって都合の良い論理を押し付けてくることに、私自身、精神的にかなり追い詰められました。


 中2以降もかなり酷く、日常の学校生活で、何かと「弱いから悪い」と言った論理が持ち出されることが多かったです。給食当番の時、私が食器担当だったとき(金属製の食器を約40人分持ち運ぶので結構重い)、本来は食器を2人で持ち運びしなければならないにもかかわらず、大体の場合は食器を一緒に持ち運ぶ事になっていた相手がサボっていたりするケースが多かった経験があります。もちろん、単に病欠とかの都合があった場合もあるのですが、それよりも、美術や体育などの授業から帰ってくる際に、あえてモタモタして意図的にサボる人たちが多かったというケースが多かったです。

 このとき、私以外が当番だったときは、誰かが代役を引き受けて食器を2名で運んでいくことが多かったのですが、私の時だけは、一連のいじめの中で「弱いから悪い」みたいな事ばかりを言われてきた経緯があり、そのため、「弱いから悪い、1人で持ち運びしろ」とか、「早くしろ、代役を決める暇があれば一人で持ってきたほうが早いだろ、時間がねえんだよ、コラ」みたいな言葉ではやし立てる人が出てきたりして、結局は重い食器(繰り返しますが、金属製の食器を約40人分です)を1人で持ち運びすることを余儀なくされることが頻繁にありました。とはいえ、重すぎる食器ですから、2名で持ち運びするのと比べるとどうしても時間的に遅くなったりするわけですし、荷物の重さで腕や手が非常に痛くなったりすることも重なり、教室まで運ぶ時間がどうしても長くなってしまうのですが、そのことまでも「モタモタしているから悪い」とみなされて、教師から怒鳴られることも多くあり、そのことを周囲の同級生らがネタにして、昼休みには暴言や暴力が繰り返される、ということもよくありました。

 さらには、給食とは直接関係の無い、私が他の同級生から暴力や暴言で嫌がらせを受け、学校内で大きな騒ぎとなったとき、教師が私の親に一方的に電話をかけてきて、「給食の食器を一人で持っていかないから悪い、弱いから悪いんだ」というようなことをずっと言いつづけ、強引にいじめの件と食器の件(というか力仕事全般のこと)を結び付けようとする出来事まで発生しました。(同様の事は、私の「生活の記録」という日記帳形式の宿題のノートにも頻繁に書かれる状況で、私自身、本来なら2名で持ち運ぶべき食器を1人で持ち運びさせられた上に、「給食の食器を一人で持っていかないから悪い、弱いから悪いんだ」と書かれ続ける状況だったので、私としても、本来は2人で持ち運ぶべき食器を1人で持ち運びさせられるという理不尽な思いをした挙句に「生活の記録」でも更に教師から理不尽な事を繰り返し一方的に書かれ続けるわけで、非常にいやな思いをしました。)




 また、中学では、生徒会活動も、「生徒会の仕事を押し付けて、あとはいじめて成績を落とさせて蹴落とそう」という話が普通にあって、要するに生徒会そのものがいじめの温床となっていました。要するに、いじめられている人になんらかの生徒会の重役にあえて「就任」させ、その生徒会の重役の仕事の中でいじめて(生徒会活動等の場合だと、どちらかといえば企業におけるパワハラに近い形態のいじめになるわけですが)、そして不登校に追い込もう、という流れになっていました。具体的に言えば、生徒会長などを決める前の段階から、私に対して「おまえに生徒会の仕事を押し付けて、あとはいじめて成績を落とさせて蹴落としてやる」という趣旨の事を露骨に言って挑発してくるひと、あるいは直接的な表現ではなくてもそれをうかがわせるような婉曲的な表現を用いて挑発してくる人などもたくさんいました。

 学校の生徒会をめぐって、一般の生徒の間で「生徒会の仕事を押し付けて、あとはいじめて成績を落とさせて蹴落とそう」という話がそうした現状があり、それにまつわる具体的な話などもかなり出ていた中であるにもかかわらず、教師達はその事実に目を向けることなく、今度は私に対して「自分のための勉強ばかりしやがって、他人のためのスポーツや生徒会活動はしないから、自己中だ」と決めつけてきたり、「逃げてるだけなんだろ、ビビッてるだけなんだろ」みたいな事を言ってきたりする教師達が多かったりしました。

 このように、教師達によって「自分のための勉強ばかりしやがって、他人のためのスポーツや生徒会活動はしないから、自己中だ」というような論理が広がっていって、生徒の多くも教師たちの論理に洗脳されている感じだったのですが、そうした中で、先に述べたように、生徒会の役員等が決まる前から、私に対して「生徒会の仕事を押し付けて、あとはいじめて成績を落とさせて蹴落とそう」という話が生徒の間で広がっていて、具体的なきな臭い動きが水面下で進んでいたことも事実です。

 私と同じくらいの成績の人たちもいるのに、その人たちには誰も何も言わず、ただ私だけに対して、生徒会が絡んだ嫌がらせや圧力が横行し、廊下での通行妨害が酷くなったりとか、私のクラスの教室に乗り込んできて暴言を言ってくる人たちが増えてきたりとかの現象が多くなっていました。(なお、結論から言うと、私は生徒会役員は引き受けずに済んだものの、結局は様々な圧力や誹謗中傷等の問題が執拗なまでに残り続けた経緯もあり、最終的には、結局は学級役員を押し付けられる流れになりましたが、案の定、学級役員の仕事の中で、不当な要求とか、本来はありもしない仕事をでっち上げられて「サボリ」扱いされてつるし上げの対象になるなどの嫌がらせとか、そのほか細かい中身の「いびり」も含めたら、想像以上の多くの嫌がらせを受けました。)

 もちろん、生徒会役員になれば帰宅時間が遅くなったりして勉強時間が取れない、志望校も変えないといけないほどにハードだ、とする話は、いじめの話とは別件として噂レベルで言われていたことで、これは誰が悪いとかではなく、生徒会の負担が重過ぎるという制度上の問題だと私は思うし、部活や学業でただでさえ忙しい中学生にとって、生徒会の負担は(たとえ下っ端の係程度のものだったとしても)尋常なものではないほど大きなものだと私は思います。生徒会を民主的に使おうという理想論が、憲法学の中では良く語られる話ではありますが、現実には生徒会は民主的ではなく、管理教育のために生徒を動員するための制度と化している以上、私個人としては生徒会は民主化されない限りは廃止すべきというのが、私自身が当時から今でも持ち続けている持論です。

 ただ、もちろん、私自身は、こうした持論を当時は公にしているわけではありません。ただ、現実として、私の中学時代の場合だと、私に対して「生徒会の仕事を押し付けて、あとはいじめて成績を落とさせて蹴落とそう」という話が広がっていったことは事実だし、中2に進級したとき「あと半年すれば、この学年から生徒会長が選ばれる」という話が公式にアナウンスされた時点からこうした話が横行していたし、現に「成績を落とさせてやる」というような露骨な挑発をしてくる人、「役員になって帰りが遅くなればお前なんか成績が簡単に落ちる」というような事をにおわせる発言をしてくる人、様々な人たちが1学期の時からいて、その上で2学期になって生徒会会長選挙が告示されると、周囲から「会長選挙に出ろ、出るって言えよ」と圧力を掛けられ、怒鳴られたりすることはもちろんのこと、恫喝めいた言葉や、廊下での通行妨害が激化し、私が移動教室のために廊下を歩くだけでも、押しくら饅頭のような乱闘騒ぎが続き、私は幾度となく暴力を受けたりしましたし、この当時は、例えば授業の関係で私が教室から理科室に移動するだけでも、別の学年の教室を経由し、どうにか隠れながら理科室に移動するなどの対策を採らなければろくに廊下も移動できないというほどにまでに、廊下での通行妨害や暴力が激しかった状況でした。

 結局、こうして色々と揉め事が多い期間の間、教師からも「自分のための勉強ばかりやりやがって、学校のための事はしないのか」と圧力がかかったりしました。そうしたときでも、教師の口からやはり飛び出してくるのは「ビビッてるから悪い」だの「逃げてるんだろ」だのといった言葉でした。(なお、当時の担任教師は、私に対して「成績がいいから性格が悪い」と一方的に決めつけてきて、何か騒動が起きるたびに、私がやってもいない発言とかを度々捏造してきたりする人物だったのですが、そうした中で、他の生徒が私に対して「生徒会の仕事を押し付けて、あとはいじめて成績を落とさせて蹴落とそう」という話をしていたことに、担任教師が便乗する形で同調して、私に対して生徒会長選挙に出馬するよう圧力をかけていたことは事実です)

 ただ、私としては、もともと持病の治療のために通院が必要だった経緯があるので放課後の時間は生徒会の仕事は困難だという一般的な問題もあったほか、学校の中で、仮にいじめが無い状況ならともかく、現実にはいじめが起きていて、普通の人が生徒会役員になるのとは違って、私が役員を引きうけた場合、その役職の仕事の中で嫌がらせが起きて、一層いじめが激しくなることが目に見えていたし、現実にそれを露骨に「宣戦布告」的に予告してくるいじめっ子達や、露骨ではなくても、役員になれば帰宅時間が遅くなり成績が落ちる蓋然性のこと、役員の仕事の中でいじめが起きる蓋然性などを、間接的ににおわせながら嫌味を言ってきたり挑発してくるいじめっ子達がいたりした現実もあります。

 そして彼らの多くは私に対して通行妨害してきたり、私の教室に押しかけてきて、こうした挑発的な発言をしてくるケースが多く、悪意が前面に出ていたことは明白でした。そうした中で、仮に私が生徒会の重役を引き受けるとすれば、私個人の持病の治療はともかくとしても、それよりも、生徒会活動を通じたいじめが一層激しくなることは目に見えていました。そうした現実を見ようともせず、教師達は私に対して「自分のための勉強ばかりやりやがって、学校のための事はしないのか」とか「逃げているだけだろ」などといった言葉で圧力をかけてきたわけです。

 もちろん、彼らの真意は、「生徒会の仕事を押し付けて、あとはいじめて成績を落とさせて蹴落とそう」という目論見を実現するために私に対して圧力的な手法で誘導しようと言う考えだったのでしょう。私は、彼らが言うような「逃げる」などの意図は全くありません。ただ、生徒会の役員などに就任すれば、彼らが「予告」し続けていたように役員の仕事の中での嫌がらせ等が横行し、今までよりも更に、量的にも質的にも、従前よりもさら酷いいじめを受けざるを得ない状況に追い込まれることは目に見えていました。成績が云々以前に、自分の精神とか健康状態、それ以前に身体の安全などに危険が及ぶ可能性すらありえました。

 そうした現状があるのに、いじめの現実に教師はあえて目をそらした上で、それだけに飽き足らず、教師達は私に対して、同級生らと共謀して、「生徒会の仕事を押し付けて、あとはいじめて成績を落とさせて蹴落とそう」という目論見を実現するために、私に対して圧力的な手法で誘導しようとしていたことは明白でした。そうしたいじめの現実があるのに、私に対して「ビビッテルから悪い」「逃げてるから悪い」「自分のための勉強ばかりやりやがって、学校のための事はしない自己中」などというレッテルをはり続ける教師側、そしてそれと利害を一致させているいじめっ子側。言い方を帰るなら、いじめっ子たちの思惑に私が「まんまと誘導される」ように仕向けようとして教師側がいじめっ子達と何らかの連携をしていた事も明白でしたし、私が彼らの思惑通りに「誘導されない」ことに対して、教師やいじめっ子達は自分らのなかで勝手に苛立っていたのでしょう。

 とにもかくにも、生徒会をめぐって私が他の人たちから受け続けた嫌がらせは、日に日に酷くなり、私自身も「選挙に出ると決まったわけではない」うちから、精神的に結構参っていました。

 そして、結局は告示期間中のバッシングの後の「時間切れ」を迎え、私は生徒会長選挙には出馬しなくて済み、もちろん生徒会長選挙の落選者で構成される各専門部(体育部とか環境美化部とか)のトップの役員も引き受けずに済んだのですが、それでも周囲からのバッシングは収まらず。結局、半月後に決められた学級役員で保健班の役員を引き受けざるを得なかったのです。

 比較的地位の低めな役員という事で、私としては持病の治療のための通院の事も気になりながらも、一方で学校の中での圧力やバッシングが尋常ではなかったために引き受けた役員だったのですが、案の定といえばいいのか、下っ端とは言えども、役員の仕事の中での嫌がらせやいじめが激しく、毎回の専門部会のたびに、あるいは行事予定表が配布されるとか様々な行事関係があるたびに、「帰りが遅くなるな、勉強時間が減って成績が下がるよな~、だけどお前みたいな自己中は勉強の事ばかり考えちょんなよ、サボるんじゃねえぞ」と言った趣旨の言葉を毎回のように廊下で通行妨害しながら言ってくる人たちや、私の教室に押しかけてきて私に対して暴力で絡んできたりする人たちとかが多く存在したし(私としてはサボるつもりなど毛頭なかったにもかかわらず、一方的に「勉強時間が減って成績が下がる」という可能性をにおわせながら、このような発言を暴力を交えながら行ってくる人たちが多かった)、専門部会の会議で伝達がなかった仕事内容が「すでに始まっている仕事内容だ」ということをいきなり言われて、しかし私のところに連絡が来ていなかったために、数ヶ月間、私は「さぼり」扱いされて糾弾されたこともあり、ただしその件に関して、私は学校の担当教諭からの警告も受けていなかったので不思議に思っていたのですが、実はそれは「仕事内容が多くなりすぎて何が新しく始まった生徒会活動の内容なのかがわかりにくくなっている」状況に便乗して一部の悪意ある生徒が流した「デマ」だったということも解り、私はその「デマ」のせいで「さぼり」扱いされたり、本当は生徒会すら指示していなかった「生徒会活動の仕事」を(現実には指示もなかった内容なのに)無駄にやらされるといったこともありました。(背景にあるのは、私の学年の生徒会長が、教師の意向で、前年までは前例のなかった「今年からの取り組み」になるような仕事ばかり増やし、役員だとしてもそうでなくても、学校行事や生徒会活動関連の負担が全ての生徒に対して重くのしかかるだけでなく、「何が本当に始まった取り組みなのか」ということすら解らなくなってしまうほどに、仕事内容が増えて、訳が分からない状況となっていて、その混乱に便乗する形で、「新しい仕事内容」をでっち上げるデマを作り上げていた人たちがいたという事情があります)。

 同級生達や教師達は、従前から「生徒会の仕事を押し付けて、あとはいじめて成績を落とさせて蹴落とそう」という事を様々な表現で私に対して「予告」してきていたわけですが、やはり「予告どおり」だったというか、学級役員の任期中におきた嫌がらせは数知れません。私自身、成績はそこまで下がらなかった(学年1位だった成績が学年2位~4位に下がったりした事はあるがそれは誤差の範囲レベルだった)ことは不幸中の幸いだったとはいえ、成績結果とかはともかくとして、彼らがやってきた「生徒会の仕事を押し付けて、あとはいじめて成績を落とさせて蹴落とそう」という目的で行われてきた一連の暴言とか嫌がらせそのものが、私にとってかなり辛いものでした。要するに、成績が下がったとしても、下がらなかったとしても、結果が発表されるまでの間、継続的に行われ続けるいじめ自体がそもそも辛いわけですし、結果が出ても次のテストの日程や生徒会の予定はすぐに控えているわけで、その繰り返しの中でいじめ自体も継続していくわけですから。

 もともと、「生徒会の仕事を押し付けて、あとはいじめて成績を落とさせて蹴落とそう」という話がかなり前からいじめっ子たちの間で計画されていた話だったにもかかわらず、教師達はいじめっ子達と結託して、私に対して生徒会の仕事を押し付けようとして、ありとあらゆる誹謗中傷をともなう圧力をかけてきたわけで、ただ私自身も彼らの事を批判してばかりいられない状況に追い込まれ、地位の低めの役員を引き受けたが、やはり”案の定”といえばいいか、私が引き受けた役員の仕事の中で、度重なる嫌がらせ等が横行した事も事実です。私が生徒会活動の中で、いじめっ子たちの思惑通りの嫌がらせを受けるように仕向けようとしたのは、紛れも無く、教師達だったのです。

 そうした現状があるのに、教師達は私に対して「逃げている」「ビビッている」「弱いから悪い」と言い続けるわけです。いじめが無い状況なら、生徒会活動だってどうにか他の人並みに可能なレベルになるでしょうけれど、現実にいじめがある状況なら、生徒会の下っ端の係レベルの「軽い仕事」ですら、困難になってしまう、仕事を完了できたとしても、その過程において、普段のいじめに起因する様々な嫌がらせなどの被害を受けたうえでの「完了」であるにすぎず、生徒会活動を引き受けなければ起きなかったであろうと推量できる「いじめ」が、生徒会活動を押し付けられたせいで(しかも「生徒会の仕事を押し付けて、あとはいじめて成績を落とさせて蹴落とそう」という話が露骨なかたちで全体的に「予告」された上で発生したいじめでもある)そうしたいじめの被害がより重篤かするという問題も出てくるわけです。

 そうした現状があり、生徒会活動の仕組みの中で横行するいじめが「意図的に」「特定のターゲットが指定された形で」「事前に予告され、実際にそれが実行されたかたちで」行われたにもかかわらず、あのとき教師達が私に対して「逃げている」「ビビッている」「弱いから悪い」と言いつづけ、無理やり私が生徒会のなんらかの重役になるように仕向ける形に圧力をかけて、いじめっ子の「思う壺」に私を無理やりはめ込もうとした教師達。

 それでもなお、私に対して、あるいは当時の私と同じ境遇に置かれていると考えられる、現在の全国のいじめ被害者達に対して、教育関係者らが「嫌なことも跳ね返す力を養わせるのも教育」などと言い放つのであれば、それはいじめ問題の本質を理解しようともしていない、そして、いじめっ子達やその
追従者たちの「裏の意図」に目を向けようともせず、いじめ被害者に対して「まんまといじめっ子たちの思う壺にはめられとけ」と、教師や教育関係者らが事実上言っているのと同然のものとしか考えられません!

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 他にもいろいろとありますが、私の経験上、いじめの被害者となってしまうと、普通なら自己解決できるような内容の事、例えば生徒会活動の仕事とか、給食当番とか、掃除とか、行事の中での役割分担でも、普通の人と違って、様々な嫌がらせの中で仕事をこなさないといけない事情が生じてきます。普通の人が、多少の「嫌なこと」があっても自分の力で出来る事ですら、いじめの被害者となってしまうと、生徒会活動の仕事とか、給食当番とか、掃除とか、行事の中での役割とかを十分に全うすることは困難になってしまいます。生徒会活動の仕事とか、給食当番とか、掃除とか、行事中の活動とかの中でも、要するに社会人におけるパワハラやモラハラのような形式で、学校においては生徒会活動の仕事とか、給食当番とか、掃除とか、行事のなかで、いじめがエスカレートし、そうした嫌がらせの中で、普通の人ができる事でも、役割とかを十分に全うすることは困難になってしまいます。

 また、嫌がらせが酷くなれば、いじめへの対応にエネルギーを費やす必要性があり、学業にも集中できない事は事実です。私の場合は大きく成績が下がる事はなく、精神的に不安定となったときに特定の教科の成績が少し下がる程度だったのは不幸中の幸いですが、現実には、いじめによって成績が下がったりする人もいる事は事実でしょう。学業に集中したくても、日常の暴力や暴言に耐える事に日々のエネルギーの全てを使わないといけない状況に追い込まれたら、学業に使うエネルギーや時間はそれだけ少なくなってしまうこともまた事実です。勉強が好きなひとであっても、勉強をしたくてもいじめのせいで勉強が出来ない、という人がいる事も事実です。(その多くは高卒認定を経て大学進学を果たすと思いますが、学校で学ぶという選択肢を、いじめによって不当に奪われたという現実は変わらないでしょう)。

 そして、もっと簡単な事、例えば教科書を借りるとか、教師からの連絡事項を誰かに伝えるといった、普通の人が簡単に出来ることですら、いじめの被害者となってしまうと、それも困難になります。私の場合でも、例えば、レクレーションのためにクイズを作成するために、教師の命令で急遽他のクラスに教科書を借りる必要性に迫られた事がありますが、教科書を借りるだけでも「本当は忘れたんだろ、認めろよ」みたいなバッシングが始まり、集団ヒステリーのようになってしまい、やはり廊下で暴力とか通行妨害を受けたし、その状況を見ていたある同級生が私に教科書を貸そうとすれば、その同級生に対しても通行妨害が始まるほどの状況で、結局は教科書を借りる事が出来なかった、そうした事があるのも現実です。連絡事項とかのことでも、私の事を無視したり、私に対して日常から暴言をいってくる人ばかりの状況の中で、連絡事項を伝えるだけでも一苦労だし、場合によっては他人を介して連絡事項を伝える、という事もありますが、その「仲介役」を探し、その仲介役を頼むだけでも一苦労、と言う感じで、だからと言って黒板とかに勝手に連絡事項を書くとバッシングになる、と言った感じで、そうなると、誰かに連絡事項を伝えるという些細な事ですら、困難となってしまいます。


 いじめの被害に遭うという事は、単に日常の暴言や暴力のつらさというだけではなく、生徒会活動の仕事とか、給食当番とか、掃除とか、行事とか、あるいは教科書を借りたり、連絡事項を伝達したり、日常の会話をしたりするといった、普通の人が単なる「嫌なこと」であっても簡単に済ませることが出来る用事ですら、いじめという問題がおきてしまうと、それら全てが困難になってしまうことになってしまいます。ましては、こんな状況下では友達など作れる状況ではありませんし、そのことを理由として「友達を作ろうとしないから悪い」と言われ続けるのも、私の経験上、かなり辛すぎるものがあります。

 矢巾町の教育長の言うような「嫌なことも跳ね返す力を養わせるのも教育」というような発言は、私の経験上、これはいじめ問題の残酷な現実を理解しようとしていない暴論としか思えません。

 いじめが起きてしまうと、一人の人間が集団から暴力を受けたり、物を隠されたり壊されたり、通行妨害が起きて校内の移動にも支障をきたしてしまったりするし、いじめっ子らによって口裏あわせが行われる結果、身に覚えのない事で犯罪者のごとくでっち上げられたりします。

 そしてそれがエスカレートすると、先に書いたように、生徒会活動の仕事とか、給食当番とか、掃除とか、行事とか、あるいは教科書を借りたり、連絡事項を伝達したり、日常の会話をしたりするといった、普通の人が単なる「嫌なこと」であっても簡単に済ませることが出来る用事ですら、いじめという問題がおきてしまうと、それら全てが困難になってしまうことになってしまいます。

 いじめられた場合、多くの被害者は、それを跳ね返そうとして努力するわけです。自らの命を絶つまでに追い込まれた多くの被害者達も、どうにか生きようとして、頑張ってきたわけです。しかし現実には、「多勢に無勢」の現実の中で、もちろんいじめによる暴力や暴言行為そのものについても耐えられないものとなるし、更には「いじめさえなければ、普通に他の人と同じように出来る活動」ですら、例えばモノの貸し借りとか掃除とかですら、いじめがあるために、他の人と比べて困難になってしまうわけです。

 私が受けたいじめですら、そうした現実があり、日常の学校生活のありとあらゆることに嫌がらせがつきまとい、非常に苦労した経験があるわけですし、私よりもひどいいじめを受けてきて自らの命を絶った多くの人たちは、私には想像できないような、もっと多くの苦労があったのだろうと思います。しかし繰り返しになりますが、単なる暴力や暴言、無視などの問題だけにとどまらず、学校生活の日常の事、たとえば生徒会活動の仕事とか、給食当番とか、掃除とか、行事とか、あるいは教科書を借りたり、連絡事項を伝達したり、日常の会話をしたりするといった、普通の人が単なる「嫌なこと」であっても簡単に済ませることが出来る用事ですら、いじめという問題がおきてしまうと、それら全てに嫌がらせがつきまとってしまい、普通に出来そうな事ですら困難になってしまうという問題があり、それらの事も含めて、いじめは深刻になってしまうわけです。

 従って、いじめ問題について、普通の「嫌なこと」と同列に並べて議論をしようとすることは、あまりにも暴論としかいいようがありません。普通の「嫌なこと」があってもそれを自己解決できる人たちでも、いじめという問題は、人数の関係とか、あるいは日常生活のあらゆる局面に影響を及ぼす関係もあって、全てのことが「解決困難なこと」となってしまうまで追い込まれてしまう。それを単なる一つの「嫌なこと」の一種として議論する事はナンセンスです。全ての諸課題について「全てが解決困難になるまで追い込まれる」、それがいじめの怖さなのですから。

 それに、いじめそのものが集団的な犯罪であり、虐待行為であるわけですから、それを「嫌なことも跳ね返す力を養わせるのも教育」という見解で話を済ませようとするのであれば、それは、いわば「教育目的の名の下に、いじめという犯罪行為を正当化している」事に他ならないわけですから、そうした論理そのものが許されることがあってはならないわけです。体罰やいじめの温床にある「ビビッているから悪い」「弱いから悪い」といったような、守旧的な価値観に基づいた指導が今でも蔓延している状況というものは、どう考えても犯罪行為を正当化し、逆に犯罪被害者に対して人格否定的な対応を行うことによる「二次被害」を生み出すわけですから、法治国家として以前に、近代国家の中ではぐくまれてきた人権の観点から言っても、やはりおかしなものとしか言いようがないものです。


 最後にもう一度書きたい。「嫌なことも跳ね返す力を養わせるのも教育」とする妄言は断じて許されません。普通の「嫌なこと」といじめ問題を同列に並べるな。普通の「嫌なこと」を跳ね返す力を持てる生徒でも、「解決困難になるまで追い込まれて日常活動全部が困難になるまで追い込まれる」のが、いじめ問題の特異性なのです。

 そして、いじめ被害者は、断じて「いやなことから逃げている」人たちというわけではありません。理不尽ないじめがありながらも、それでもその理不尽さの中でどうにか頑張っていて、それでも、どんなに頑張っても「いやなことであってもまっすぐに向き合って、それでも、いじめに起因する様々な嫌がらせのせいで、普通の人が自己解決できる事すら困難になるまで追い詰められ、その結果、自らの命を絶つまで追い込まれてしまう」というのが現実なのです。それに、それ以前の問題として、誰も「いじめられてよい人間」など存在しないわけだから、いじめという「犯罪行為」を教育の場で正当化しようとして「嫌なことも跳ね返す力を養わせるのも教育」など開き直るような態度をとることは、犯罪行為を容認しているも同然としか言いようがありません。

 私の経験から言わせてもらうと、「いやなことから逃げている」「いやなことを跳ね返すのを怠っている」として糾弾されるべきなのは、いじめを隠そうと躍起になっている教育委員会とか教師とか学校とかPTAなどの人々のほうではないか!と私は言い返したくなります。

 「嫌なことも跳ね返す力を養わせるのも教育」などという暴論は、いじめ被害者がこれまで学校の諸問題について、自分なりに向き合ってきた事の努力、そしてどうにか生きようとして適応しようとしてきた努力、それらの努力を踏みにじるものであり、今回の矢巾町教育長の発言は、まさに被害者のこれまで生きてきた努力そのものに対する冒涜としか言いようが無いと思うし、全国各地の教育現場や教育行政の中で(例えば私の出身地の鹿児島市も含めて)、矢巾町と同様の認識で教育に携わっているのであれば、それもまた、いじめ問題と向き合っている被害者に対する冒涜としか言いようがありません。



追伸:このブログの一つ前の記事の続きにおいて、予定として前の記事の続きを書くことを予告していたので(教師がいじめ問題について対応しようとせず、あるいは隠蔽に躍起になるがあまりに、生徒が書いた言葉(あるいは生徒が発言した言葉)などについて、会話が成り立たないような台詞を返すことで事態をうやむやにしているという点について)、少し前よりその記事の準備をしていたのですが、一部報道を受け、それよりも重要な事を書く必要性が生じたため、今回は予定を変更して、予定とは別の内容の記事を書きました。その点はご容赦いただければと重い増す。
posted by ななこ at 01:50| いじめ問題 | 更新情報をチェックする
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