2013年09月27日

「最低でも体罰やいじめに加担した教師は問答無用で実刑判決」であるべきと私は思う。

 多くのマスコミで報道されているように、大阪市の体罰問題の判決が出された結果、顧問教師の刑事責任に関しては、有罪とはされたものの、執行猶予がつく判決が出されました。有罪は当然のことではありますが、なぜ実刑ではなく執行猶予判決だったのかということが疑問に思います。暴力によって人の命が失われる、そうした結果に追い込んだ教諭の責任が「執行猶予」という形でしか問われないということはやはり受け入れ難いものです。最低でも「体罰は実刑判決を受けるべき犯罪だ」という判決が一般的になっていかない限りは、同じような体罰事件が繰り返されるのではないかと私は危惧しています。


 そもそも、スポーツ強豪校ならば、試合に勝つためなら何でも許されるという雰囲気があることで、教員が「指導」に名を借りた体罰やいじめが横行するようなことがあるわけです。また、進学校における進路指導等でも同様の事があります。また、スポーツ強豪校にしても、進学校にしても、「教員に逆らったら将来がない」かのような雰囲気が漂っていて、そのため、教員が特定の生徒に体罰やいじめ、差別等をおこなっても、周囲の生徒がそれに異論を唱える事もせず、あるいは周囲の生徒が教員側に同調することで、学校の中での自らの立場をよくしようとする、そういう実態があちこちで起こっていることもまた問題です。

************************

 実は、私自身も体育教師からの体罰を受けたことがあります。例えば高校の時には、武道の授業の教師からの標的にされたこともあります。私は武道の授業では剣道を選択していました。

 当時、私は、(どういう理由でこのような事態になったのか解りませんが)剣道の教師から何かにつけて言いがかりを付けられたりする事態が増えて、酷いときには一人だけ見せしめ的に、気分が悪くなるまで素振りをさせられ、身体がふらつくまで素振りをさせられたこともあります。私は、同級生達から「剣道の教師から目を付けられた人間」として有名だと周囲から言われるようになりました。

 このことについては、私はかなり我慢していました。というのは、中学時代に教師から「冤罪」を着せられるなどの酷いことをされた経緯があって、教師の「保身体質」というものが身にしみて解っていたため、「高校を卒業するためには体罰も泣き寝入りをせざるを得ない」という漠然とした恐怖感を持っていたためです。そのため、私は、この体罰について親に相談する事は避けていました。ただし、そうしている間にも、剣道の教師に同調していた同級生達からは、馬鹿にされたり暴言を受けたりすることも多くあり、体罰よりも同級生達からの嫌がらせのほうがつらいと感じることもありました。(なぜ「戦わなかったんだ」とか言う人もいるかもしれませんが、裁判というのは当事者にとってはなかなか簡単に出来るものではないものです。教師の権力が強く、理不尽な「敗訴」となる可能性の高いのに、その「戦い」を強いる人たち、そして、「戦わないから悪い」「戦わないんだったらごちゃごちゃ言うな」とか言う人たちは、ある意味でいじめっ子や教師たちと同様で加害行為に加担しているのと同じです。その自覚を持ってほしいと思います。)

 話は戻しますが、剣道の教師から体罰を受け続けていた時期の事、私とは面識の無いほかのクラスでもこのような話が話題になっていたという事で、私と面識の無い、他のクラスのある人が、あるとき、私の親の知人に、私が剣道の教師から言いがかりを付けられたり見せしめ的な体罰を受けているという「噂がある」ことを話したということで、その知人を介して私の親のほうに話が伝わるくらいの大きな話になっていました。

 そうしている間にも、体罰が酷くなりました。あるとき、その教師が、「これから"打たれる"稽古をやる」と言い出しました。これは、普通の打ち込み稽古ではなく、一方的に強い力で教師から叩かれるだけの稽古、教師いわく「強く打たれるのに対してびびるのが悪い」という考え方でこのような稽古を発案したということらしいのです。普通の打ち込み稽古なら納得できても、これは明らかに暴力としか言いようがないものでした。そして、その中で、教師に叩かれる「役目」を指名されたのが私でした。

 このとき、教師いわく、「他の人も全員やられるんだから、ますトップにおまえを叩く」みたいな説明でした。他の同級生達も、「後がつかえているんだから、はやく叩かれに行け」みたいな態度で、私に対して「なにもたもたしてんだ」というような感じで暴言を浴びせてきました。そのため、「全員同じ稽古を受ける」という説明を受けた私は、その教師から、竹刀で胸のところ(胴の防具の少し上の、胸のわき腹のところ)を勢いつけて殴られました。私は殴られた後、教師から「なにびびってんだよ」と更に暴言を浴びせられ、そして教師に同調して他の同級生達が騒ぐといった状況で、一種の集団ヒステリーのような感じになっていました。しかも、当初の説明では「全員同じ"打たれる"稽古を受ける」という説明だったはずが、結果的には私一人だけがこの"打たれる"稽古の標的とされました。要するに、教師の言う「"打たれる"稽古」を受けたのは私一人ということ、他の人に対してはこの「"打たれる"稽古」は行われなかったのです。これ自体も差別だと思いますが、さらに、「"打たれる"稽古」と称するものも、本来の打ち込み稽古ではなく、教師のサンドバッグのように竹刀で一方的に強く殴られるだけのものだったので、結局は「教師から竹刀で胸を殴られる」という形の暴力を私一人だけが受ける形になりました。しかも、このとき同級生達も一種の集団ヒステリーのような感じになっていて、教師に同調して私に対して暴言を浴びせるなどのことがあり、その暴言などは授業が終わった後も、何日もしつこく続きました。

 私は、胸部を殴られてしばらくは腫れた状態になる怪我を負いました。場所が場所なのでとても痛いのです。次第にこの状況に耐えられなくなり、武道の授業のある月曜日は学校に行けないような精神状態になりました。しかし、そのような状況をいつまでも続けるわけにはいかないので、あるとき、月曜日に剣道の授業を受けに行くと、剣道の教師が、私を待ち伏せしていて、竹刀の保管場所のところで「お前、なにさぼってんだよ、なんしちょったとよ」と暴言を浴びせてきて、それから再び暴力が始まるといった感じでした。


 学校に相談しようとも思いましたが、私自身、学校に相談したら自体が悪化すると考えて我慢し続けながらようやく学校に通い続けた感じです。なぜ相談できなかったかというと、私が通っていた学校が、いわゆる「県内トップ」と称される進学校で教師の権力が強いため、教師の権力の濫用次第では、腹いせ的に単位を出さないといったことで退学に追い込まれるのではないかという恐怖もありました(実際には単位は認定されてどうにか卒業はしましたが)。

 また、私自身、その恐怖を感じたのは、高校の中の強権的な雰囲気の問題だけでなく、自分の実体験として、中学のときにも担任教師(偶然にもこの教師も体育系だった)から嫌がらせを受け、私のいないところで、教師が私の親だけを呼び出して、私の事について事実無根の事をでっちあげて私の親に話をするなど、私が濡れ衣を着せられ「問題児」扱いされたりした経験もあったためです。この背景には、当時のクラスが荒れていて、私自身がいじめの標的にされていて、そして教師がクラスの中で起きているいじめについて責任を私になすりつけるために、私の人間としての信用性を貶める意図があったのだろうと思います。このとき、加害者たちが担任と結託して、私に関するうその中身を学校の中で言うようになったり、私のいないところで私の親だけが呼び出され、私に関する嘘の「問題行動」をでっちあげることで、私を「ウソツキ」扱いして自らの保身を図っていました。このときも、実は女子の一部のグループの人が正直に「担任がいじめを誘発していた」と証言するなどのことがあって、その意味では高校の時に受けた体罰と似たような面(第三者が教師の加害行為への関与の存在について証言をしている点)があったといえるのですが、それがむしろ担任の怒りを買ってしまったことで更に私への風当たりが強まる結果になりました。その経験があったので、高校での体罰も我慢していたのですけれども、やはり、体罰を受けるということはつらいものがあります。


 そして、多くの教師に共通して見られるのが、いじめがあった場合、教師は加害者に対しては注意もせず、被害者に対して「弱いから悪い」とか言って、そして次に出てくる発言はだいたい「スポーツ少年団に入らないから悪い」とか「ボールをビビッているからわるい」とか、とにかくいじめとは関連の無いことで責任転嫁を図ろうとする点です。ひどいものになると、中学時代のときには、私の親に対して「他のクラスの教員から、日曜日にビビッて歩いているのを目撃されているんだ、そんな態度だから悪いんだ」みたいなことを言った担任教師もいたようです。



 そもそも、本来、スポーツが得意でも苦手でも、(あるいは勉強や芸術などの能力の分野でも得意や苦手があっても)それらの得意や苦手を根拠にいじめがあってはならないはずです。そして、個人には得意もあれば苦手もあるし、何かを伸ばそうとすれば他の能力は相対的にみて、比較的劣っていると見られるのもやむをえないことのはずです。また、個人が自己実現を図る上で何かの能力について頑張ろうとする事についても、個人の人生である以上は、本人が真面目に考えたことならば自己決定に基づいた努力のあり方を選択する自由があるはずです。


 それなのに、「いじめ」の責任を「スポーツが出来ないから悪い」とか「成績がいいから嫌味と見られて当然だから悪いんだ」とか、もっとひどいのになると「自分のための勉強はやっても他人のためのスポーツや生徒会活動は消極的な自己中」などのレッテルを貼ろうとする教師の責任転嫁の手法というのは、どう考えても許されるべきものではありません。それに、「自分のための勉強はやっても他人のためのスポーツや生徒会活動は消極的な自己中」というのはどうかんがえても偏見だと私は思います。スポーツが得意で勉強が苦手な人がいるのと同じで、勉強が得意でスポーツが苦手という人もいます。そして、自分なりに授業も真面目に受けているわけで、その上で生じてくる、個人の特性の中での得意や苦手は誰にでもあるはずです。その中で、どういう大人になりたいかと言う事は自分で考えて、その「なりたい自分」になるための努力としてどの分野を伸ばしたいのかという事を決めるのは個人の自由のはずです。そうした「自己実現のために伸ばしたい分野」に関する自己決定の問題や、あるいは誰にでもある「努力だけでは解決できない不得意な部分」などを槍玉にあげて、いじめ問題を強引に結びつけて話をうやむやにしようとするような、教師の態度は絶対に許せないものです。ましては、休日の過ごし方や目撃談まで含めて、しかも伝聞に基づく虚偽の中身を持ち出して「いじめ」問題と強引に結びつけて責任をなすりつけようとする教師の態度は論外です。



 今日も、個人的なことを詳しく書きすぎたかもしれませんが、このような記事を不快に思われたかたもいたかもしれません。その点はご容赦いただきたく思います。ただ、体罰の問題は一向に解消されない現状というものに私は本当に腹が立ちます。また、体罰やいじめの温床にある「ビビッているから悪い」「弱いから悪い」といったような、守旧的な価値観に基づいた指導が今でも蔓延している状況というものは、どうかんがえてもおかしなものとしか言いようがないものです。「最低でも体罰やいじめに加担した教師は問答無用で実刑判決」というくらいの社会であるべきです。
posted by ななこ at 02:01| 体罰問題 | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。