2014年08月27日

ドラえもんといじめ問題の関係、そして道徳教育と「洗脳」の問題。

 少し前の話になりますが、台湾で「ドラえもん」が学校でのいじめを助長する恐れがあるということで放送自粛の可能性もあるらしいということが一部で報じられていました。

 まず、私個人としては、特定の番組の描写については、台湾はともかくとして日本においては憲法上の表現の自由の関係の事があるので、国の規制ではなく民間の自浄作用によって適正なものが模索されるべきとの立場をとっているということを念頭にこの記事を書き進めますが、ただ、ドラえもんの描写の中で、のび太君がジャイアンやスネオからいじめられる描写を見ると、私個人としては心が痛みますし、あのような描写はいかがなものかと思うことも多々ある事は事実です。

 そして、「ドラえもん」の描写において私が最も問題視すべき点だと思うのは、いじめ被害者に対する偏見を助長しかねない描写が多すぎるということがいえると思います。例えば、のび太君が「成績が悪く運動も出来ない、努力しない」性格だという設定になっている点です。

 私が思うのは、現実に実在しているいじめ被害者は、のび太君とイコールではないにもかかわらず、作中におけるのび太君の設定のせいで、現実のいじめ被害者までもが、「努力しないから悪い」と決めつけられたりすることが多く、そのため追い詰められる人も多いと私は思います。


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 私がこの話題を取り上げたのは、私の小学校5年の時の学級会で「ドラえもんはのび太君に道具を貸すべきか」という論題で議論をしたことがあったためです。とはいっても、「議論」とは名ばかりで、担任の独演会のような感じだったというのが実態です。要するに「議論」という名目の下に、実際は、担任が生徒達を特定の方向に思想誘導させようとしたことは明白なものでした。


 当初、この学級会は「のび太君に道具を貸すべき派」と「のび太君に道具を貸さないべき派」の両方に分かれて話し合いを行い、意見をぶつけ合うというものでした。私は「貸すべき派」のグループに属し、そこで意見を取りまとめて、「貸すべき派」のグループ代表として話をする役目になりました(小学校の時、だいたいこうした役目は私が押し付けられるような感じの空気があったことも事実でしたが、学級会でグループ代表として話をするくらいのことなら私としても特段の支障が出る話でもなかったため、この程度の事はほとんど引き受けていたのです)。

 このとき、私が属した「貸すべき派」のグループの意見として他の人から挙がったのは「道具を貸さないと、そもそも番組が成り立たない」ということと、「道具を貸さないとのび太君はいじめられて不登校になってしまい、中学にも行けなくなる」ということでした。これらは私個人の意見ではなく他の人から挙がった意見であって、私はグループの代表としてこれらの意見を取りまとめて発表したことを記憶しています。

 一方、「貸さないべき派」の立場の人の意見も、当初は「ドラえもんは本来、別の人のところに配達されるべきだったものなのに、誤ってのび太君の家に配達されたものだったため、本来の配達先に戻すべきだ」という、番組内の設定の話に終始した意見でした。

 ここまでの議論なら、私としても健全な議論だと思いましたし、私が属していなかった「貸さないべき派」の立場の人の意見にも一理あると納得したものだったのですが。


 しかし、ここで担任が「貸さないべき派」に肩入れし始め、いきなり「サバンナではシマウマはライオンに食べられる運命なんだ、だから道具を貸すべきではない」みたいな事を言い始め、そして「貸すべき派」のグループの代表だった私に対して執拗に返答を迫るということを繰り返し始めました。

 私はあくまで「貸すべき派」のグループの代表として返答しなければならない立場だったため、担任に対し「いじめで命を落とす人もいる、動物の世界を人間の世界と一緒にすべきではない」という趣旨の事を返答しました。しかし担任は「弱肉強食論」ばかりを強弁し始め、そして私に対して執拗に返答を迫りつづける。担任は一人で不機嫌な様子になり私に対し怒鳴り続ける。私としても当時は10歳くらいなので、大人と比べて知能が発達しているわけではないため、当時の私は「人間と動物を一緒にすべきではない」「弱肉強食という価値観によっていじめを容認することはあってはならない」という趣旨の意見を繰り返し返答することしかできなかったのです。10歳の時の私にはそれが精一杯でした。しかしそれでも担任は繰り返し「弱肉強食論」を私に浴びせ続け、再び私に対して返答を迫る状況。同じことの繰り返し。もはや「議論」とは言いがたい、異様な状況になっていきました。


 そもそも、私以外にも「貸すべき派」のグループの人はいるのに、彼らに対して担任は質問をすることはなく、また、担任以外の「貸さないべき派」のグループの人たちもいるのに、彼らに発言権を持たせることもせず。次第に担任の独演会のようになっていき、担任は私に対して執拗に「弱肉強食論」を唱え続け、私に対して怒鳴り口調で返答を迫り続ける始末。

 そもそもこの学級会はディベートのための学級会だったはずなのに、担任が特定のサイドばかりに肩入れしている上、まるで担任の独演会のような感じになってしまい、そして担任とは異なる意見を持っている私が「攻撃の的」にされ続け、執拗な罵声を浴びせられる。そして、担任と私を除いた、いわば発言権をもてない生徒達は「観客」のような感じになってしまっている。私の目から見ても、いったい何のための学級会だったのか意味が分からなくなっていった感じです。

 こうなってしまうと、「発言権をもてない観客」のような感じになってしまった他の生徒達は、ある種の「洗脳」を受けた感じになっているようでした。このディベート終了後、他の生徒達がいっせいに私に対して「先生がああ言ってるのに、何で言うことを聞かないんだ」「何で反抗してるんだ」といった具合で私に対して糾弾してくる状況になっていったわけです。

 そもそも、この学級会の当初の時点では「弱肉強食」など意識しなかったはずの生徒達も、担任が執拗に「弱肉強食論」を唱え続けた結果「強ければなんでもやっていい」かのような思想に染まっていき、暴力的に荒れていく感じが目に見えて分かるレベルでした。そして、このとき私は「担任と違う意見」というだけで担任から執拗に攻撃の的にされていたので、そのときの空気からか、「多数派とは違う意見を言えない空気、異論を許さない空気」が顕在化していきました。

 そして、当時の私は、従前より、普段からクラスでいじめられていたほうでしたが、このディベート以降、加害者達はまるで担任の「お墨付き」を得たかのように振る舞い、暴力や暴言を激しく行うようになっていき、歯止めがかからなくなっていく状態になりました。そして、私に対する暴力や暴言が授業中ですら発生していて、そのたびになぜか私が担任から怒鳴られ続ける、そうして理不尽なことが多くなりました。

 担任が私に対して怒鳴るパターンは大体決まっていて、「お前の言う事は正論だ、しかしそんなのは日常茶飯事なんだよ!」という話の次に「精神が弱いから悪い、スポーツ少年団に入れ」と執拗に迫り続けるという感じでした。時には「堅物だから悪い」といった、私の人格を否定するような言葉も浴びせられる状況でした。

 こうした「お決まり」のパターンが何度も続き、私は真面目に授業を聞いていても、授業中ずっと怒鳴られたり、教卓の前で立たせられたりすることが多くなり、私としても本当に疲れました。何よりもひどいのは、私に対して暴言や暴力を行っていた加害者達にはお咎めなしの状況が続いたという点が理不尽でした(しかもいじめの騒ぎが酷いときだと、授業中もその余韻というか余波みたいなものがあり、浮ついた態度を取っている加害者達がいて、授業の雰囲気としても問題があったはずなのに、なぜか私のほうが怒鳴られるばかりでした)。6年に上がる前には私の自宅にまで担任が電話をかけてきて、私の親に対して「スポーツ少年団に入れさせろ、中学に入っていじめられてもいいのか」という脅しの言葉を投げつけてきたりするようなことも起きました。

 話を戻しますが、このとき「多数派」だった人たちは、担任が彼らに対して植え付けた感覚に疑問を持たないまま、その後小学6年、そして中学に進んでいくわけですから、中学になってから一層荒れてしまうわけです。後に私は(以前から書いているように)中学では小学校とは比較できないほどの激しいいじめを受け、さらには中学校側がいじめを隠すために、私がやってもいない、見に覚えのない問題言動等を学校側がでっちあげてきて、私の同席のないところで私の親だけを呼び出して学校側が私の事を中傷する、という出来事も起きるほどに話が泥沼化したのですが、これは単に中学校だけの話ではなく、小学校時代からの悪しき流れというものが少なからず中学にも影響した出来事だったと私は考えています。


 いろいろと書きましたが、話をドラえもんの事に戻すと、やはり私の意見としては「人間と動物を一緒にしてはいけない、弱肉強食は人間世界では認められない」と私は思います。そして、「弱肉強食」という考えすらなかった子ども達に対して「洗脳」するような手法で、教師が生徒の思想を誘導するようなやり方で「弱肉強食」の思想を植えつけ、いじめの加害者達の行為を助長するような「指導」は、教育として不適切なものだと私は思います。

 また、この問題は、近年の安倍政権が進める道徳教育の教科化とか、土曜授業における道徳教育の拡充を考える上でも考えさせられるべき問題だと思います。教師が道徳の授業とかで子ども達を「洗脳」するような手法が横行する可能性が危惧されます。例えば、本当ならばいじめや人権侵害に該当する行為でも、教師が「これはいじめではない」と思い込ませるようなやり方で、被害者に対して泣き寝入りを強い、また加害者に対して反省の機会を設けることもせず、「いじめの存在が表に出ないようにする」事ばかりに躍起になって現実のいじめの状況に目を背けるような、いわば教師の保身ばかりが前面に出てしまう、そのことによって被害者の心身を追い詰めるような学級運営が横行することも懸念されます。あるいは、被害者の特定の属性(成績がいいor悪い、スポーツができるorできない、あるいは性格が○○だから~、等)というようなことを持ち出してきて、例えば「成績がいいからいじめられて当然」というような酷い価値観を植え付け、被害者に対して泣き寝入りを強いるとともに、加害者に対して、いじめの加害行為を教師主導で「公認」するようなやり方が取られたり(現に私の中2~3の時の担任がまさにこの手法をとっていじめを隠ぺいしていた教師でした)して、結果的にいじめに歯止めがかからず酷くなっていくことも懸念されます。

 「教育は洗脳である」というようなことを言う人もいますが、確かに「知識を教える」上で、洗脳的な要素は排除できないとはいえども、それでも思想的な部分まで「洗脳」するようなことはなるべく避けるべきだし、ましては基本的人権まで剥奪するような「洗脳」は教育としては許容されてはなりません。教師がいじめを隠そうとして躍起になり、保身を図るために、いわば偏った思想を子ども達に植え付けた挙句、更には、教師に「洗脳」されていない生徒に対してバッシングを強めるやり方で、異論を封じ込めるようなことが平然と行われるのであれば、被害者はいじめの被害以上の「二次被害」を受ける(教師によるいじめの隠蔽のために被害者が見に覚えのない罪を着せられたり、被害者やその家族が地域からバッシングや揶揄を受けて追い詰められるなどの「二次被害」ということ)ということにも繋がっていまい、人道上の観点から極めて懸念される問題だと私は思います。

posted by ななこ at 04:29| 道徳教育 | 更新情報をチェックする
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