2013年05月27日

教育と異文化理解についてー橋下氏の発言から考える

 最近、橋下徹氏(日本維新の会代表)の発言から、旧日本軍の「従軍慰安婦」問題について論議があります。彼らの記者会見等での言動を聞いていると、私自身も極めて恐怖心を感じたことは否めません。旧植民地の地域の女性達にたいする人権蹂躙の問題が深刻だという事はもちろんですが、国籍の話はともかくとしても、戦時中であろうとなかろうと、女性を道具として使う発想自体が許せないし、国家が人間を「道具」として扱い、個人の人権を国や組織が蹂躙することを是認する風潮が強まることも懸念されるわけです。

 ただ、今回の維新の会をめぐる騒動は、いわばナショナリズムを含めた話になってしまうので、やはり教育現場での異文化理解のあり方を含めて考えさせられることもたくさんあります。

 ちなみに、私自身は、血統としては父親の家系も母親の家系も日本人で、田舎にある墳墓や寺院などに残っている先祖の記録や、ある機会に目にした明治時代以降の家系図を見ても、私は「純粋な日本人」です。

 しかしながら、私の経験としては、中学時代に、どういうわけか理解できないのですが、私があたかもアジアの某国の国籍の外国人であるかのように言われ(ここでは「A国」として説明します)、中学に入学してしばらくしたころから「国に帰れ」とか「A国人」ということを揶揄する歌を作られたりしたこともあり、また、「A国人」だということで私の机に落書きがあったり、黒板に私が「A国人」であるかのようにひどい落書きがあったりした実態があります。また、給食の時に班で食事を採るときでも、「ベルリンの壁」と称して私の机が他の誰かの机に触れる事自体が許されないといった状況もありました。(おそらく名前が挙がっていた「A国」が旧共産圏の国に属していた事も意識されて「ベルリンの壁」という言葉が出てきたとは思うのですが、ベルリンの壁の崩壊やソビエトの崩壊を実際に目にした事のない私の同級生が、社会の教科書の知識等だけで「冷戦」を意識して差別的言動をしているのも変な話ではありますが。)

 ちなみに、同じ同級生には華僑(中国系日本人)の人がいましたが、私が在籍していた中学の場合、その人に対する人種差別的な言動は見られなかったというのも大きな特徴でした。おそらく、「本物の外国人」に対して差別的な言動をすれば学校側から問題視されるということを周囲の同級生達が事前に想定し、その上で、「本当は日本人」のはずの私を「外国人」に見立てた上で、外国人差別的な言動を「純粋な日本人」の私に対して向けてきたのだろうと思います。現に、私に対する同級生からの暴言や、黒板・机への落書きについては教師は「見てみぬふり」だったことも事実です。

 そして、これがエスカレートすると、定期テストのたびに、同級生達が私を「A国代表」と勝手に名づけ、一方、華僑の同級生を「中国代表」と位置づけ、その上で、私がその華僑の同級生より成績が悪かったというだけで、私本人だけでなく、「A国」に対する侮辱的な発言が同級生達から浴びせられるといったことがありました。私自身があたかも「A国」人なのではないかという話は同級生達が勝手に作っていった話だったので、私は同級生達から「A国」を侮辱する発言を浴びせられたところで、私自身が傷つくという話ではないのですが、もしその場に「A国」の人がいたとすれば、おそらく本物の「A国」の人なら自分のルーツを侮辱されたという思いで傷ついてしまうのではないかと私は思い、そのことを思うと、とても悲しくなってしまいます。

 私自身の経験からいうと、まず前提として外国人に対する排他的な考えや差別は止めるべきだということをまず最初に考えるべきだと思います。

 そして、もう一つ考えるべきなのは、「外国人差別をやめろ」という動きが今度は「日本人に対する逆差別」になったり、「本当は日本人の人を外国籍であるかのように見立てて差別をする」ようなことにつながったりするなど、「外国人差別の微妙なライン」の中で差別的言動が行われるという陰湿な方法が横行するような事も同時に防ぐべきなのではないかと思います。

 難しい問題ではありますが、やはり教育現場での異文化理解のあり方を含めて、様々な角度で、様々な立場の人の思いについて考えながら自分の考えを構築していくという事が教育の中で大切になってくるのではないかと私は思います。
posted by ななこ at 02:26| 教育と異文化理解 | 更新情報をチェックする
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