2015年07月14日

岩手県矢巾町のいじめ事件から考えること(1)「生活記録ノート」が抱える問題点について、私自身の経験を踏まえて考える。

 岩手県矢巾町で、中学2年の男子生徒が、いじめを苦に自らの命を絶った事件が多くの波紋を呼んでいます。報道されていくうちに、この男子生徒が前年度からいじめを受けていて、何回もSOSを出していたにもかかわらず、教師がそのSOSから意図的に目をそらしていて、特に「生活記録ノート」の記述について教師が適切な返答をせずに、いじめ問題に関わる部分については意図的に返答を避けるようなことを繰り返していたことが多く報じられています。そして、その繰り返しの結果、最悪の結果を生んだということは言うまでもありません。


 私自身もいじめを受けた経験者として、この事件について悲しく思うとともに、今回の事件について色々と感想を持ったわけですが、特にこの事件を受けて、私自身が感じた点を2つ挙げるなら、

・「生活記録ノート」のようなたぐいのノート類が本来の趣旨通りには使われることがないという点、場合によってはノートなど無い方がマシ、というレベルの事態すら生んでいるという点

・教師がいじめ問題について対応しようとせず、あるいは隠蔽に躍起になるがあまりに、生徒が書いた言葉(あるいは生徒が発言した言葉)などについて、会話が成り立たないような台詞を返すことで事態をうやむやにしているという点


この2つの問題について、多くの事を考えさせられる事件だったのだろうと私は思います。

 私自身もいじめを受けた経験があるので、ここでは私自身の経験をふまえながら、この2つの点について論じてみたいと思います。

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 まず1点目、「生活記録ノート」のようなたぐいのノート類が本来の趣旨通りには使われることがないという点、場合によってはノートなど無い方がマシ、というレベルの事態すら生んでいるという点です。

 以前のこのブログの記事でも少し触れましたが、私自身が義務教育時代をすごした鹿児島市の場合は、中学においては「生活の記録」と称するノートが存在していました。これは、岩手県矢巾町における「生活記録ノート」と同じように、簡単な日記の形式をとっているものです。単に自治体によってノートの名称が異なるというだけで、鹿児島市では「生活の記録」と読んでいただけの事なのだと思います。

 私自身の中学時代の場合だと、「生活の記録」に、いじめに関する記述を書くことすら出来ないレベルであるほどに、言論弾圧みたいなものが強く、自由に文章を書くことは難しかったのが実態です。いじめに関する記述を書くことは難しいだけではなく、例えば直接的な表現ではなくても読む人によってはいじめに関する記述だと捉えられるような文章を書いたとしても、学校側は悪い意味で過敏に反応し、職員室への呼び出しなどがあり、そこで教師からつるし上げられる流れになってしまうわけです。具体的に言うと、その「呼び出し」の場において、教師達は、いじめっ子達が行った暴言や暴力については全く触れようともせず、逆に、今度は私に対して冤罪を着せてくる手法をとってくるような事をしてきました。

 例えば、あたかも私が信号無視をしたかのような事実無根の話を、学校側と一部生徒達が口裏を合わせる手法ででっち上げてきたりとかの事もありました。更には教師がいじめっ子に対して私の成績表(テストの順位が載っている個票の記録のもの)をわざと見せたうえで、私の事について、教師は「成績がいいから嫌味なんだ」「どうせ成績がいいから他人を傷つける頭だけが回るんだろう」みたいな事ばかり言ってくる始末。さらにはテレビ番組や音楽などの娯楽の事にまで毎回のように話が及び「周りに合わせないから悪い、周りに合わせないのは友達を作る努力が見られない証拠だ」みたいなことばかりを言ってきたりとか。そのほかにも色々なことがありました(以前のこのブログの記事にも書いたとは思いますが)。

 「生活の記録」に、いじめに関するSOSのようなものを書いただけでも、逆に腹いせ的に冤罪をでっち上げられ、更にひどい目に遭うことが繰り返される。次第に、いじめとは関係ない趣旨で書いた何気ない一言(例えば「○○の試合で疲れた」などの言葉)だけでも、教師側から見れば、私がいじめの事について書いたと思っているみたいで、そうした事一つ一つでも同様に、教師側からのつるし上げの対象にされてしまうことがありました。(もちろん、スポーツの試合とか行事関係の中で、いじめがあったことは事実で、そのことは教師自身も認識しているはずです。ただ一連のいじめ問題の中で、「生活の記録」にいじめの事について書くこと事態がタブーとなっている中で、私としてはそのタブーを避けて日記を書いたつもりです。しかし、私が行事関係とかで何かを書くたびに、それが私としてはいじめの事について直接表現していないとしても、教師側から見ればそれは私がいじめの件について何かを書いたと思っていた面もあったみたいで、だからこそ教師側はいじめの事を隠そうと躍起になって、私の言葉一つ一つに対して「過剰反応」した上で、今度は火消しに躍起になろうとして私に圧力を掛けようという事ばかり、学校側は考えていたのでしょう)。


 私の中学時代の「生活の記録」の日記と言えば、いじめの事についてSOSを発信する事ができない、もしいじめの事について書いてしまえば、いじめを隠蔽したいと考えている教師達からの腹いせに耐えないといけないということが繰り返される、だからいじめの件について「生活の記録」のなかで言及する事は困難。そうした事情から、私がいじめの事をあえて避けて書いたとしても、教師側からみれば、私の日記の中の一部表現が、いじめの事に関する記述だというように思ってしまう面があり、結局はいじめを隠蔽したいと考えている教師達からの腹いせが繰り返されるレベルです。つまり、SOSを発する事ができないばかりか、何気ない言葉の一つであってもそれが「いじめの事について何かを書いた」とみなされるなら、ましては、いじめの事について「生活の記録」を通じてSOSを出すことはより一層困難となってしまう、という状況でした。


 そして、生徒の中には、教師に「気に入られる」ことで内申書などの評価を良くしたいと考える人たちが多くいて、それが「生活の記録」の中の日記にも暗い影を落としていました。というのは、教師が私と険悪な関係にある事を認識しているいじめっ子達が多くいるわけで、つまり、「生活の記録」の中に私を貶める内容の事を書けば、教師から気に入られるだろうという事を考える人たちが多く、さらに、一般的に生活の記録に毎日同じ事ばかり書くわけにもいかない、ということになれば、必然的に、「生活の記録」の日記のネタのため、そして教師に気に入られようとする思惑などから、特に女子の中では、私を貶めることで教師に「同調」する目的で、私にとって身に覚えのない内容の事をでっち上げて、生活の記録の中で、事実無根の事をでっち上げたうえで「密告」することをしていた人も多くいたようです。

 それを裏付ける内容として挙げられるのが、「生活の記録」の日記の中の、自習に関する記述です。私は、一連のいじめの中で、教師やPTAなどから「同級生に自習プリントの答えを見せないから悪い、不親切だから悪い」と決めつけられた経緯があり、教師達から「自習プリントの答えを他の人に見せろ、写させろ」と圧力を掛けられた経緯もあります。

(私としては「同級生に対してプリントを見せてもいいが、実際にはプリントを見せても次の休み時間からいじめが再び始まる、それでもプリントを写させろと言うのはおかしいのでは?」という趣旨で教師に対して反論した事があるのですが、教師達は「不親切な性格だから、自己中だからわざとそういう事を言うのだろう」と何度も決めつけてきて、同じやり取りの繰り返しとなったため、私としては、いじめっ子や教師、PTA関係者が私に対して張ってきた「自己中」というレッテルに反論するため、教師達に改めて「プリントを見せても答えを間違って教えたときの責任が持てない、それに自習というのは本来は自分で分からないことは自分で教科書や資料集を使って調べるのが普通なのであって、他人のプリントを写すというの間違っているのでは?」という趣旨で改めて疑問を投げかけたのですが、教師達は返答に困ったのか、「これは学校の方針だ、お前は一生徒なんだから、学校の方針にいちいち口出しするんじゃねえ」みたいなことを主張する始末。そうした中、中1の3月末に、私がいないところで教師達が私の親だけを呼び出して、私の事を誹謗中傷するという事件が発生し、結局は中2以降になって、私は不本意ながら、自分の解いたプリント等を他の人に貸したりする「義務」を背負わされた経緯があります)

 こうした経緯の中で、同級生の中では、私がプリントを解き終わるのを待った上で、私のプリントを強奪して不特定多数の人たちの間で「また貸し」しながら答えを写していく事を繰り返すようなことが常態化してきて、そのため自習プリントの回収・提出のときには、私の手元にそのプリントが無く、結果的に私自身は自習プリントを提出できないということもしばしば発生しました。

 そうした中で、あるとき、偶然、同じクラスのある女子が書いた「生活の記録」の日記が偶然目に入ったことがあり、その内容に驚きました。その内容は、あたかも私が同級生に対してプリントを見せず、暴言を吐いたり嫌がらせをしてきたかのような趣旨の内容のことでした。

 実際には、その女子のグループは、私のプリントを強奪して、不特定多数で回覧板のようにして私のプリントの答えを写し、提出時に私がそのプリントを返すようにその人たちに言っても、そのプリントを返してくれず、結局はプリント提出のためにそのプリントを返却してほしい側の私と、プリントを強奪したまま返却を拒む相手との間で、プリントの紙の奪い合いとなって、その紙自体が破れてしまって、私はプリントを提出できなかった経緯がある、そうした事があったにもかかわらず、私のプリントを強奪した側が、「生活の記録」に、あたかも私がプリントを他の人に見せなかった、暴言を吐いた、不親切だ、といった趣旨の事を書いていたわけです。

 この当時、教師は私に対して敵対心しか持っていなかったわけで、私の主張を聞くことなく、その女子
生徒が書いた「生活の記録」の内容に沿った形で、私が「プリントを“また”見せなかった不親切な人間」としてつるし上げられる流れになっていったわけです。そして教師が私に対して話してくる内容が、当該女子生徒の「生活の記録」の記述内容と一致していたことからも明らかなように、生徒の中には、教師のえこひいき的な人間関係に便乗して、教師が個人的に嫌っている生徒の悪口を書く手法で「教師に気に入られよう」とする生徒が少なくなく、また教師自身もそうした生徒達を利用する形で、教師自身が気に入らない生徒を教師の機嫌次第でイビるための「ネタ」として、教師と同調する生徒達の「生活の記録」の記述が利用されている側面もありました。そうした流れの中で、私が事実無根の罪を擦り付けられるターゲットとなった事態となったわけです。(なお、私とは直接関係ない事ですが、他のクラスではとある部活動の中で、女子同士で「タバコをすった」とする目撃談のでっち上げ合戦があり、やはり「生活の記録」における日記の記述内容をめぐって対立した人たちがいるという事も話題になっていました。そのグループの人たちも、私に対しては普段から嫌がらせとかをしてきた人たちだったのですが、私とは直接関係の無い場面で、今度はいじめっ子グループの内部でも「内部抗争」みたいなものがあり、互いに相手を貶める目的で「生活の記録」の日記が盛んに利用されていたようです。)


 他にもいろいろとあるのですが(特にスポーツ関係とかで、私に対して一方的に断罪してきたりとか、クラスが負けた責任を名指しで私にだけ押し付けるといった事があり(例えば「○○(私の名前)のせいでこのクラスはリレーに負けた」などの趣旨)、「帰りの会」などで他の生徒に対して私を「戦犯」扱いした挙句に、「生活の記録」でも同様の記述が書かれて返却される状況とかは多くありました)、私自身の経験上「生活の記録」は、教師の機嫌がよいときと悪いときで、記述にかなり温度差があるのも目立ちました。私の中2・3年の時の担任はその傾向が顕著で、機嫌の悪いときは硬筆の文字のような綺麗な字、機嫌のよいときは、中学生や高校生が遊びで書きそうな感じの丸文字みたいな傾向の文字だった事が記憶にあります。

 私の経験上、教師の機嫌が悪い日(つまり文字が硬筆のような綺麗な字となっているとき)の「生活の記録」の記述の内容は、教師からの言われなきイチャモンが目立った事が記憶にあります。例えば、「また勉強を教えなかったとか苦情が来ている」とか「前回のテストで成績が悪かったのか知らんが、最近機嫌が悪いとかで苦情を言ってくる人がいる」とか。いくら私が配慮しても、同じような記述ばかりが繰り返されるし、その背景にあるのは、「生活の記録」の日記を通じ、ネタに困った同級生らが集中的に、教師が飛びつきそうなネタ(つまり私に関する中傷的な内容)を書いていたりした人がしばしばいて、そこに教師が“案の定”そのネタに飛びついてきて、一方的に私に対してつるし上げる趣旨の内容を書いてきた、という事情があったようです(その事を私が知ったのはずいぶん後のことになりますが…)。

 私としては、事実関係が異なる事については、「これは事実じゃない」ということを再三に渡って述べてきたのですが、次第に事実関係を私の側から述べることすらタブーとされ、教師による腹いせとか呼び出しとかが繰り返され、言論統制のようなものがいっそう強まっていくため、事実関係について説明する事すら困難な事態になってしまい、そうした中で私は根拠無き罪を着せられるばかりの状態に耐えないといけない状況でした。

 一方、先にも書いたように、私が同級生から日常的に受けていたた暴力や暴言については、教師達は加害者に対して何も注意する事も無く、実際にその現場にいても、暴力や暴言を制止することすらしない教師ばかりでした。そればかりか、今度は私に対してイチャモンをつけてきて、私の言っていない発言とかを捏造してきたり、事実関係を捻じ曲げてきたりする手法で、私に対して罪を着せる手法で、いじめを隠蔽し、逆に、私に対して暴言や暴力をして来た生徒達にはお咎めなし、という状況が繰り返されていました。酷いときだと、授業中に学級崩壊となって、私が授業中に複数の男子から暴力を振るわれて、制服の生地の一部が破損しても、教師は見て見らぬふりを決め込む、といったことが普通にある学校生活でした。他にも色々と、廊下や教室で暴力や暴言、通行妨害とかもかなりありましたが、教師はみてみらぬふりを繰り返すばかりでした。




 中2の3学期。3月の時のことですが、私は何もしていないのにも関わらず、同級生の男子が授業中に私に対して暴力をふるってきた事がありました。美術の授業中のことですが、暴力行為があっても担当教諭はその状況を放置していた感じで、次の英語の授業のはじまりの時まで、私はその男子から殴られていました。学級崩壊が進んでいるクラスだったので、周囲の人たちもその男子の暴力行為を煽っている感じでした。

 美術の授業が終わっても暴力が続き、次の時間にあたる英語の授業の開始のときに、数人の教師がその男子生徒を捕まえて職員室に連れて行き、同時に、その男子から殴られていた私も職員室に呼び出されることになりました。また、「第三者」と称して、別の男子が「事情説明のため」として呼ばれていたのですが、この「第三者」が、実は普段から、私に暴力をしてきた男子生徒と仲が良い生徒だったので、「第三者」といえども、実質的には、暴力してきた生徒の「味方」だったわけです。

 そして、職員室での「事情聴取」のとき。担任教諭がその「第三者」に対して誘導尋問をして、あたかも私が問題発言をしたのだろうと決めつけて、その「第三者」に圧迫的に尋問をしていました。そして、その「第三者」の男子が、あたかも私が「迫害」という言葉を濫用したかのように嘘の証言をして担任に同調していました。

 そのため、担任が、私が言ってもいない発言を事実であるかのように決めつけ、しかも、その上に、「第三者」の生徒ですら証言していなかった「ヒトラー」や「ドイツの歴史」などを持ち出して、私を「ヒトラー」扱いしたり、私があたかもホロコーストを肯定した発言をしたかのように決めつけて捏造し、最後には「成績がいいから人を平気で傷つけるんだろ」という結論を勝手に作り上げたのです。このとき、私は、担任から、「生活の記録」に毎日ざんげの言葉を書けと指示され、その後の「生活の記録」に毎日ざんげの言葉を書かされました。

 この件の背景には、担任教諭側が、問題の粗暴な男子を普段から優遇するなどの「えこひいき」状態が常態化していたということ、そして、先に述べたように担任が私の成績の事を持ち出して結論付けた事からもわかるように、担任が普段から「成績がいいから叩かれるべき」みたいなことを平気で発言するくらいの人物で、そのため担任は私を目の敵にしていた経緯がありますが、もう一つの背景として、担任教諭が、私の「生活の記録」を返却せずに隠蔽しようとする思惑もあったわけです。

 というのは、「生活の記録」にざんげの言葉を毎日書いて提出するよう命じられたときというのは3月で、進級準備とかの関係で、「生活の記録」を提出しなくても良いと命じられていた時期でした。そうした中で、私だけが「生活の記録」を個別に提出するよう命じられたわけです。つまり、「生活の記録」を回収する係の生徒を介さずに、私が直接担任に「生活の記録」を提出し、担任から直接返却を受ける、という形になっていたわけです。

 とはいっても、この当時、私はこの男子生徒から暴力を振るわれ、彫刻刀で襲われたということもあって、そのショックで何日間は欠席していたのですが、その後、学校に復帰した後で、不本意ながらも、「ざんげの言葉」を毎日書いた「生活の記録」の提出を無理やり強いられたわけですが、その数日後には終業式でした。そして、終業式のどさくさにまぎれる形で、この「生活の記録」は担任の手元に残されたまま返却されない状況となっていました。

 おそらくは、中2の3学期前後に書かれた「生活の記録」のなかで、担任が一方的に私に対して嫌がらせ的な文章を書いてきたりした中身とか、あるいは学校生活の中で起きているいじめをうかがわせる記述などが外部に公開されることを担任教師が恐れていたのでしょう。係が「生活の記録」を集める事のない3月を狙って、担任が私に対して理不尽なかたちで「ざんげの言葉を書け」という名目をつけてきて、私だけに対して「生活の記録」の提出を強いて、その流れの中で私の「生活の記録」を返却せずに隠蔽しよう、という思惑があったようです。

 中学卒業後、私は出身中学に対して、返却されなかった「生活の記録」の返却を求めたのですが、中学校側は「そんなものは無い」の一点張りで、全く返却に応じることはありませんでした。他の人の「生活の記録」は返却されているのに、私のものだけが返却されないままでした。そのため、特に中2の終わりごろに、担任が一方的に私の「生活の記録」に対して書いてきた理不尽な言葉、いじめを煽るような言葉などについては、生活の記録そのものが返却されない、というかたちで隠蔽されることになってしまったわけです。

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 長くなりましたが、私自身の経験上、「生活の記録」を通じていじめのSOSなどを発信しようとしても、逆に、いじめを隠蔽したいと考える側の教師からの腹いせとか、嫌がらせとかが激しくなるだけで、SOSを出せないというのが実態(それだけ言論弾圧がひどい)ですし、逆に、いじめっ子達が「生活の記録」をつかってウソの事をでっち上げて被害者を貶めるような事を平気でする、その道具として「生活の記録」が機能してしまっている、という実態もあります。いじめを隠したいと考える教師達と、自分達が行っているいじめについて責任逃れしたいと考えるいじめっ子達との思惑が一致し、「いじめっ子が現実に行っている暴力や暴言についてはお咎めなし、逆に被害者に対して冤罪を着せて事実無根のレッテルをはる手法で、現実に起きているいじめをみんなで隠そう」という事ばかりが横行する、そのための道具として「生活の記録」が用いられている実態もあるわけです。更に、内申書制度などの事も重なって「教師に気に入られたい」と考えるいじめっ子達が多ければ、「教師といじめっ子達がみんなでいじめを隠し、いじめ被害者をスケープゴートにする」事に対するインセンティブが強まってしまい、事態はいよいよ悪化していくだけです。

 また、先に述べたように、様々な手段を用いて、学校側から「生活の記録」が返却されず、教師の手によって「生活の記録」の内容そのものが隠蔽されるということもあるわけです。

 私のケースの場合、中2のときの「生活の記録」が返却されなかった経緯もあり、「生活の記録」については中3の時とかの限られたものしか手元に無く、さらに中1の時だと「生活の記録」そのものを担任が利用せずに「班日誌」で代用していた経緯もあり、班の共有物ということで日誌そのものが担任の手元に残されたまま、生徒個人にはその記録は手元に残らない形となっている。更に、もともと「生活の記録」にいじめの事について書くと逆に教師達からの激しいバッシングを受けることが多かった経緯もあり、自由に日記の記述を書くことが困難だった経緯もあるため、私自身の場合、「生活の記録」を通じていじめの問題について何らかの証拠とすることが極めて難しい状況なのも現実です。私が卒業した学校は、それだけいじめの隠蔽がひどい学校だったのだろうと私は思います。恣意的な運用しかされない、逆にいじめの温床となる「生活の記録」なら、そんなものは百害あって一利なし、と私は思います。


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 現在報道で取り上げられている、岩手県矢巾町のケースの場合は、「生活記録ノート」と呼ぶそうですが、もちろん教師の対応とか学校の対応とかは酷すぎると思いますし、いじめっ子の行った行為は絶対に許されるべきではないわけです。また、被害者が自ら命を絶つまで追い込まれた、そこまで学校側がいじめを隠し続けてきた事も許せないと思います。

 ただ、私が受けたいじめのケースと違うのは、被害者が書いた「生活記録ノート」が保護者の手元に残っていて、報道陣や第三者の有識者にも公開できる環境だったということ、あるいは生徒がいじめの事について日記にとりあえず書き残せるだけの「言論の自由」が一応は存在していて、それを被害者が書き残していたということ。被害者の命が帰ってこないという事は最も悲しい事だとはいえ、ノートの記述が残っているという事は、被害者の無念を晴らすための真相究明の一助となりうるものだと思います。

(本当に、日記とかにいじめの内容について書くことができるということは、私の経験上、本当に驚きなのです。先に書いたように、私の経験上、いじめの内容について書いたり、あるいはいじめの内容について書いたつもりは無い何気ない文章でも教師達が「いじめの内容をうかがわせるものだ」と解釈してしまったりするような文章だったりすれば、容赦なく教師たちからのバッシングや誹謗中傷にさらされるわけで、その経験から言えば、いじめの件についてSOSを書き残せるだけでも、ある意味で驚き、という感じです。)


 ただ、今回の報道されているケースで、私が最も危惧しているのは、今回の報道のケースの場合はノートが残っていたことでいじめの実態が浮き彫りとなっていたことから、今度は「いじめを隠したい」を考える教師たちの間で、生徒の書いた日記などを意図的に隠す傾向が強まってしまう、あるいはいじめをうかがわせる記述に対して、教師が生徒に対して一層の圧力をかけて「言論統制」を強める傾向に向かっていくのではないかということです。私の中学時代の教師のように、いじめの事について書くだけでも腹いせ的な報復に遭うことになるとか、いじめられた生徒の日記だけを意図的に返却せずに隠蔽するようなことが横行してしまうなら、事態は悪化の一途を辿るだけです。


 いろいろと書きましたが、今回報道されているケースの場合、いじめで命を絶つほど追い込まれた人がいるということ、SOSについて教師が意図的に目をむけず、放置しつづけていたという事。いじめの加害者や教師達の行為は断じて許されるものではありませんが、ただ、当該ケースの場合、被害者が書き残したSOSのノートが残っているという事なので、そこから事実関係を解明していってほしいと思います。そして、繰り返しますが、今回の事件を受けて、間違っても「言論統制を強めよう、ノートを生徒に返却せずに自らの手で隠蔽しよう」とする教師が出てくることがないように、政治の側が実効性のあるいじめ対策を講じてほしいと思います。もし、ノートが教師にとっての「イエスマン」的な文章しか書けないような、私の中学時代の時のような事が起きるなら、ノートなど無いほうがマシ、ということだと私は思います。


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 今回の記事は、「生活記録ノート」のようなたぐいのノート類が本来の趣旨通りには使われることがないという点、場合によってはノートなど無い方がマシ、というレベルの事態すら生んでいるという点、について言及しました。

 そして、もう一つ、ノート上であるか否かにかかわらず、教師がいじめ問題について対応しようとせず、あるいは隠蔽に躍起になるがあまりに、生徒が書いた言葉(あるいは生徒が発言した言葉)などについて、会話が成り立たないような台詞を返すことで事態をうやむやにしているという点については、改めて後日の記事で書いてみようと思います。
posted by ななこ at 03:45| いじめ問題 | 更新情報をチェックする
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