2015年06月06日

「18歳選挙権」の導入を有意義なものにするために、公民教育が果たせる役割は?

 国会で、選挙権行使可能な年齢を引き下げるということ、つまり選挙で投票できる年齢を現行の「20歳以上」から「18歳以上」に変更するという事が現実味を帯びてきた事が報じられています。早ければ2016年の参院選から「18歳選挙権」の導入が行われるという話も出てきています。


 「18歳選挙権」の導入が実現すれば、高校生でも投票可能となるため、例えば実際にいじめや体罰を受けていたり、学校の中のいじめや体罰を目撃したりしている生徒といった立場の人の一部も選挙で意思表示をすることが可能になります。従来、教育政策、とりわけいじめ対策に関しては、現時点では選挙の争点とならない、あるいは「大人受け」する方針ばかりが打ち出され、いじめの隠蔽問題について深く議論できていない現状があります。残念な事に「票に結びつかない」ということで、政治家の側はいじめ対策に熱心ではないように思います。

 そして、現状では、「いじめを隠したい」ということに躍起になっている教師たちの票を意識した革新系の政党と、「集団主義・国家主義」ばかりを重視するがあまりに個人の人権を軽視する傾向にある復古主義者や財界などの票を意識した保守系の政党とが、それぞれの支持層の票を取り込むことに躍起になるがあまりに、左右両陣営ともに、いじめ問題を隠蔽しようとする傾向があるように思えます。

 要するに、保守系の政党も、革新系の政党も、いずれも「教育政策の主導権を誰が握るか」ということを争点として対立はしていますが、いずれも、教育政策を論じるうえで、「教育を受ける権利の保障」という観点からの議論が欠落しているように思います。結局のところ、左右両派それぞれが「圧力団体」の票を持っていて、それぞれの団体の意向ばかりを忖度してばかりで、例えば保守系の政党は、国家や軍隊、財界など、要するに組織における「上意下達」を強めて個人の人権を軽視するほうが都合がよいという事ばかりを考える勢力の意向に沿った教育政策を採るだけで、集団主義の名の下に個人の人権を軽視する傾向が強く、結果的にいじめを隠す傾向にあります。また、革新系の政党の場合は、その支持基盤である教師たちの意向に沿う形で、教育政策の一環としていじめ対策を議論しようとしたとき、その政策の良し悪しを考えないまま、単に「いじめ対策」そのものに対して機械的に反発をするだけで、結局はいじめを隠そうとする教師達の保身を手助けすることしか考えていないのではないでしょうか。


 結局のところ、左右両派それぞれの「圧力団体」の意向に沿って、「誰が教育政策の主導権を握るか」という考え方ばかりで教育政策が議論される、そこに、実際に教育を受けている立場である子ども達の声は反映されていないのが実態です。いじめや体罰などにより、「教育を受ける権利」が実質的に保障されていない人たちがいるにもかかわらず、政治家たちは、それぞれの支持者たちの意見を忖度し、いじめや体罰などの問題については消極的な態度ばかりを取っているように感じます。「誰が教育政策の主導権を握るか」という議論の中で左右両派が「綱引き」をしているうちには、いじめや体罰の被害者の人権をどう保障すればよいのかということについては、まともに議論されていないのが実態だと私は思います。


 その背景にあるのは、やはり今の選挙制度で、10代の人たちが選挙権を持っていないため、「いじめ対策」などに熱心な政治家は票を得にくい、つまり10代の意見が「声なき声」にしかなっていないという現実があるわけです。その意味では、「18歳選挙権」の導入に伴い、10代の若者が政治に興味を持つ事が出来るようになり、また投票を通じた意思表示もできるようになるなら、例えばいじめや体罰の被害者の一部が、「いじめ対策に熱心な政策」を打ち出した政党を支持することも可能となるだろうし、そうした動きが加速すれば、政治家の意識も変わってくるのではないか、ということを少しは期待しています。


 ただし、18歳選挙権の導入を有意義なものにするためには、公民教育のあり方についても考え直す必要があると私は考えています。高校における公民教育は、現時点で、多くの大学の入試において、社会科の科目が地理歴史のほうを重視している大学が多く、公民という科目が受験において冷遇されている傾向にあるため、特に大学入試ありきの進学校においては、高校においても公民教育はないがしろにされがちな点が多いと思います。


 また、学生が政治について関心を持つ事そのものをタブー視するような風潮があるのも事実です。日常の様々な出来事とか、あるいは学級会における賛成・反対のことをめぐって、個人の意見表明の自由が十分に保障されておらず、むしろ「周りに合わせないから悪い」「協調性がない」ということを根拠に、反対意見すら封じ込めたり、学級会での意見すら制限するという事が平然と行われている現状があるのが実態です。

 しかし、中学や高校の公民の教科書に載っている内容を学んでいくと、近代史における封建主義の時代から市民革命を経て、立憲主義の確立、自由権の保障、そして社会権の保障へとつながっていく歴史的な流れ、そして日本においては現在の日本国憲法が保障している人権の具体的な中身などを学んでいくと、そこには意見表明の自由とか思想信条の自由とかがいかに大切なものなのか、そしてその自由が失われたときに、世の中がどのように間違った方向に進んでいくのか、ということが分かってくるわけです。そこで得た知識から、今度は自分の身の回りの出来事などについて、自分自身が意見表明の自由とか思想信条の自由を「自らの権利」として行使していくことは、必ずしも間違った事ではないという自信に繋がっていくはずだし、あるいは、少数派の意見表明の自由とか思想信条の自由を脅かす勢力(要するに、集団のなかでの同調圧力とか、組織とか権力による「上」からの圧力など)が主張する「一見するともっともらしくみえる主張」が、いかに不当なものであるのかという事を知ることもできるはずです。

 私が今の公民教育に関して、もったいないと思うのは、公民教育が単なる暗記科目となっている上に、その暗記でさえも「受験で重視されないから」という理由だけで軽く扱われているという点です。公民教育というのは、受験とか暗記よりも、民主主義の社会で生きていくために大切な知識としての意義を見いだすべき内容のものだと私は思っています。

 公民教育において、意見表明の自由とか思想信条の自由とかがいかに大切なものなのか、民主主義の世の中とは何なのかという事を、教科書を使って学ぶ。そして学級活動等で開かれる「学級会」などを通じて、具体的に意見表明の自由とか思想信条の自由を「自らの権利」として行使する練習をしていく。その中で、他者と違う意見を持っても良いということ、他者と違うからといっていじめや迫害を受けるべきではないという事などを学んでいく。人権や権利といった価値の大切さを、暗記だけではなく、日常の生活で実感できるように考えていく。それらの一連の事がうまく咬み合うことで、はじめて公民教育が「生きた知識」として役立つものとなるのではないでしょうか。

 逆に言えば、公民の教科書を単なる暗記物とか、「受験に必要が無いから要らない知識」などと考えてしまったり、あるいは、学級会などにおいて、他者と異なる意見について排斥するような動きが加速し、いじめにつながってしまったり、更には学校や教師がいじめを隠蔽し、いじめ被害者に対して不当な「圧力」を掛ける手法で泣き寝入りを強いようとしたりしているうちは、その学校における公民教育は大失敗としか言いようがないし、そうした中で「18歳選挙権」が導入されたとしても、有意義なものとはなっていかない、期待はずれのものとなってしまう懸念もあるわけです。

 教科書などで憲法や人権のありかたについてしっかりと知識として学び、その上で、自分の周囲で起きている出来事などについて意見を考えたり、それを表明できる自由を保障する、その両方をうまく組み合わせる事が肝心です。その上で、子どもたちの世界においても民主的な気風を醸成できるようにする、その流れの中で、多数派に流されないということや、権力・組織に迎合しないことの大切さを学ぶことがまずは重要だと私は思います。その上で、「少数派に対する、多数派によるいじめ」や「教師が主導するいじめ行為、いじめ隠蔽、体罰行為」などについても批判的視点から考えていくきっかけにしていき、そこから人権意識を確立させていくことこそが、単なるいじめ対策や体罰対策というだけにとどまらず、国民の権利向上のための世論が形成される気風を醸成するという意味でも重要なことなのではないでしょうか。その意味において「18歳選挙権」の導入が有意義なものになることを期待したいものです。

posted by ななこ at 04:11| 時事の話題 | 更新情報をチェックする
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