2015年02月11日

ISIL問題:後藤健二さん、湯川遥菜さんに哀悼の意を表するとともに、彼らの最期の画像を授業で見せる各地の教師たちに対して抗議します

 この記事を書くかどうか迷ったほど、重すぎる話なのですが、イスラム過激派組織、自称「イスラム国」(別称:ISIL、またはダーイシュ)に捕らえられた後藤健二さん、湯川遥菜さんの2名がお亡くなりになった事件について、まずは故人2名に対し、哀悼の意を申し上げます。

 先日、彼らに「危機」迫る旨の動画がマスコミで広がり、また彼らの帰還を願う声が「I AM KENJI」または「I AM HARUNA」という、一種の呼びかけの運動となっていて、このブログでも取り上げようと思っていたのですが、そもそも国際情勢については報道内容が交錯しやすく混乱しがちな面もありますし、今回の事件も、事態が事態なだけに、最も危機的な状況の時期に、日本政府が人質救出の交渉を行っている最中においては、この話題について触れることは避けようと考えていました。しかしながら、事態が最悪の結末に終わってしまい数日経過したため、今日はこの話題について触れたいと思います。

 後藤健二さんは、まさに「知る人ぞ知るジャーナリスト」であり、これまでも各地で紛争地帯の子ども達にスポットをあて、教育問題についても多くの社会問題を提起してきた方です。いわゆる少年兵問題や、教育を受けられない子ども達のことについても、数々のことを伝える貴重なジャーナリストでした。彼の生命が奪われたという現実、これは日本にとっても、また一般のイスラム圏の人々にとっても、大きな損失だといえるでしょう。

 また、湯川遥菜さんについては、昨年現地で捕らえられたということが日本のマスコミでも報じられて以降、安否が分からない状態が続いていたようですが、報道によれば湯川さんは民間軍事会社の社長だとはいえども、最近のシリア訪問は、現地の民間人に、現地で不足している医薬品を提供するための訪問だったと報じられています。軍事といえば聞こえは悪いですが、彼は彼なりの人道支援の意思があって、現地の人々の助けになろうと思っていたのではないでしょうか。そうした人の生命が奪われる事はあってはならないことです。


 そして、この2名を失った悲しみを日本人の多くが共有しているはず…と思っていたら、学校現場で信じられない出来事が起きているということです。なんと、学校の授業において、彼らの最期の画像を生徒に見せ付ける教師がいて、現時点でも全国各地、複数の地域でこのような事が横行しているということです。なんとも卑劣、なんとも残酷な事であり、言葉にならないほどの怒りを感じています。



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 きょうはISILの事件に教育現場がどう向き合うべきか、少し述べてみたいと思います。なお、ISILは本来のイスラム教の考え方とは異なるという指摘もなされているため、この記事では問題の過激組織を「イスラム国」ではなく「ISIL」と表記いたします。

 そもそも、ISILが提示した画像・映像は、あまりに残酷すぎるものです。大人ですら、「ぼかしていない画像」を見ることは避けたいと考える類のものです。それらを子ども達(しかも思春期に該当する小学高学年から中学の年齢層の人々)に見せてしまう事で懸念されるのは、ある人はトラウマになるということ、別の人は残酷なことに関心を寄せてしまったりするなら、将来的に模倣犯などになったりする危険性などが懸念されます。

 特にISILの場合は、衝撃的な映像や画像を公表する理由としては、交渉相手(後藤さんや湯川さんの事件についていえば日本政府やヨルダン政府)に対する揺さぶりという目的だけではなく、それらの画像や動画を見た人々、特に子どもや若者の歓心を集めることで、彼らの「仲間」を世界中から「勧誘」するという、ある種のプロパガンダ目的があるということは多くの人々が指摘しています。後藤さんがお亡くなりになった旨の動画が公表された直後の、菅官房長官の会見にも、「一連の騒動はISILによるプロパガンダ戦略の側面がある」という趣旨の文脈があり、日本政府がISILを強く非難していたことからも、それは明白です。

 そのため、欧米諸国など(特にISILによって捕らえられて犠牲となった人がいるアメリカやイギリスなど)では、これらの画像や動画については触れない形で報道される事が多いものです。それは報道規制という意図ではなく、マスコミが図らずもプロパガンダ効果をもたらしてしまう可能性というものを極力排除する必要性があるが故の自主規制だとも言われています。もちろん子どもたちを含めた国民全体を、トラウマや洗脳から保護するという意図もあるでしょう。

 ただ、日本のマスコミのあり方についてはさておき、日本のマスコミですら、「ぼかし」を入れるなどの修正を加えるなどして報じているものについて、それをあえて学校現場で子ども達に見せるようなことをやる教師がいるというのは、想定の範囲内とはいえやはり驚きだし、子ども達の一部がISILのプロパガンダに図らずも「洗脳」され、将来的に残虐な思考にとらわれてしまい、何らかの事件を起こしてしまう可能性もあるのではないか、ということを危惧します。



 実際に、ISILに関与している少年兵たちは、他人の命を刃物であやめる様子や、出血などについて「感情が麻痺する」ように訓練されるといいます。その訓練として、ISILは残酷な動画を子ども達に見せている、ということも言われています。近隣諸国に脱走し、難民となった元少年兵の一部は、そのトラウマに悩まされているといいます。また一方でトラウマにならずに感情がマヒしてしまった子ども達もいて、彼らは戦争で他人の命を奪う事を厭わない「兵隊」になってしまいます。仮にISILが今後衰退しても、ISILの訓練によって育った少年兵たちが、将来、2020年代や2030年代になって大人になり、新たな中東の不安定要素を招く勢力となることも指摘されているところです。

 そのような「感情が麻痺する」危険性のある動画や画像を、日本の教育現場で、子ども達に見せるという授業が行われているということが判明したわけで、教師達が行った事は、まさに許しがたい暴挙としかいいようがありません。


 また、トラウマについても、教育評論家として知られる尾木氏が指摘しているように、半年以上経過してから現れるものもあります。一般論として、いじめ被害者や犯罪被害者などのトラウマについても、問題となった出来事があってから半年以上経過してから、症状が顕在化するものもあるわけです。

 教育現場において、残酷なものを見せると言う事は、ある人はトラウマになってしまう、そうではないひとは残酷な考え方を持って育ってしまう可能性が高いのです。ISIL関連に限らず、一般論として、残酷な物事についてあえて見せ付けるような授業展開を行うという事は、まさに百害あって一利なしの行為です。

 今回の事件も、今となっては、まさに「見せてからでは遅い」ものだし、特に子どもの時に、残酷な形でお亡くなりになった人とかを見たときのショックというものは、将来にわたって頭に残りやすいものです。子ども達のトラウマを軽減するために、あるいは子ども達が「模倣犯」にならないように、必要な対策が講じられるべきです。



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 このような事を論じると、「なぜそこまで断定的にいえるのか」と反発する人もいるかもしれません。そこで、私自身が小学校や中学校で目の当たりにした出来事についても書いておきます。


 私自身も、小学校時代に同級生からカッターナイフで襲われた事もあるし、中学時代には、美術の授業中に同級生から刃物を突きつけられたことがあり、中学の時の出来事に関して言えば、相手が突きつけてきた刃物がもし何センチかずれていたら腹部が刺されてしまう可能性もあった、まさにそのような恐怖に遭遇した事もありますが、負傷はしていなくても、刃物で襲われそうになる出来事があるだけでもトラウマになってしまう面は否めません。私自身、20代になった今でもトラウマが残っていることもまた事実です。

 同様に、私は学校の体罰を受けた影響もあって、テレビや新聞の報道などでもスポーツニュースなどは見たくないし、スポーツの話題が出るだけでも、気分が悪くなるときもあります。特に20代になってから、スポーツなどの話題で気分が悪くなる事が増えていったし、逆に言えば高校時代までは、私自身は知らず知らずのうちに我慢していたのかもしれません。こうしたトラウマ的なものは、自分で克復しようと思っても、やはり克服できないし、気分が悪くなってからでは日常生活に支障が出て周囲にも迷惑がかかるので、気分が悪くなりそうな話題については極力避ける形で日常生活を保っています。


 トラウマについて、私の経験を語ってもあまり意味は無いと思うので、それについては少し話は置いておきます。

 ただ、以前にも書きましたが、私が小学校や中学校のときでも「世の中の残酷な出来事など」に対して、教育の場所でどのように向き合っていくべきか、と言う事に関しては議論があったとは思いますが、私が小学校の時に感じたのは、学校の教育の中で、(当時子どもだった)私達に対して、教育の中で大人の「汚い部分」みたいなものに子どもをあえて触れさせよう、というような空気が教育のなかで広がっている印象を子どもながらに感じることもあり、違和感を持ちながらの小学校時代を送ってきた記憶があります。



 以前にも書きましたが、私の小学校の時には、「小刀を全員購入して鉛筆は小刀で削るべき」みたいな指導があって、本来なら刃物に対して抵抗感をなくして小刀などのツールを使う練習とかいう意図なら分からなくも無いのですが、実際には「弱肉強食」みたいなニュアンスの価値観の形成の一端を担ってしまった事のほうが大きく、弊害のほうが大きかったと思います。小刀がうまく使いこなせなかったり、鉛筆削りを使ったりしただけでも、教師から一方的に「甘えんな、コラ」などと言われるような指導がありました。

 私自身は現在20代なので、小学校時代といえば約15年位前の出来事にはなりますが、その時代の基準から見ても、あまりに復古調過ぎるような精神論がまかり通っていたと思います。

 そして、そのようにして「弱肉強食」みたいなニュアンスの価値観が形成された結果、周囲の同級生達が、残酷なものに影響を受けやすくなっていったのです。

 何が起きたかというと、本来は鉛筆を削るために使う小刀なのに、それを使って、威嚇するとか護身用とか、そうした用途に使う同級生達が増えてしまったということです。威嚇されたり刃物を突きつけられたりしたときに「怖い」と思うことすらタブー、というような空気になっていったわけです。

 こうして、刃物に対して抵抗感がなくなった同級生達は、次第にカッターナイフを持ち歩くようになりました。当初は小刀よりカッターナイフのほうが図工の時に便利だという趣旨で、カッターナイフを使う同級生が多かったのですが、次第に、図工以外のときに持ち歩く人たちが増えていき、私のランドセルが切り裂かれる事態になったり、下校時に同級生からカッターナイフで脅されるといった、酷い事態にもなりました。

 そして、精神論的なものが植えつけられている中で「自己犠牲」みたいなものも同時に思考的に植えつけられている面もあって、それを何か勘違いした方向で捉えた同級生たちの一部が、腕にカッターナイフで文字を書くことを競い合うようになって、その痛みの「やせ我慢」を競い合う感じで、その出血の状況を私に対して見せ付けるようになりました。私がそれを「見たくない」と言っただけでも、周囲から「弱いから悪い」「何あまえてんだよ」みたいな暴言の嵐が繰り返されました。

 そうした事も重なると、同級生達が自由帳に描く絵も変わっていきました。残酷な出血の絵とか、死を連想させるような絵を書く同級生達が増えていきました。それが学校内のある種のトレンドみたいになってしまい、私が書いている普通の肖像画などが「ダサイ、幼稚だ」みたいな感じで非難される状況でした。小6のとき、私がパソコンの授業で書いた絵のファイル(学校の方針として、ファイルの保存は外部危機ではなくパソコン本体に保存する形だったので誰でもアクセスできるファイルだった)が同級生達によって改ざんされ、私が書いたあるアニメキャラクターの絵が、そのキャラクターのあちこちから血が噴出す絵に改造されたりもありました(教師に相談したのですが、教師は全く対応してくれませんでした)。私が絵を書き直しても、次の授業時にはその「加筆」が繰り返されたため、私は犯人を捜すためにパソコン室を見張り、そして「犯人」の同級生たちが私のファイル画像に残酷な落書きをする瞬間の現場を突き止めたので、その場で抗議しましたが、相手の言い分は「ダサいのをかっこよくしてやったんだ、何が悪いんだ」「お前がダサい絵を描くから悪い」みたいな事を言うばかりでした。他人のファイルを勝手に改ざんするほうが悪いのではないか、と私が指摘しても、相手は喧嘩腰になって、余計に態度をエスカレートさせていきました。また、そのときの口論の場面では教師がすぐ近くにいたのですが、その教師は全く「見て見らぬふり」の態度でした。

 時系列てきには話が前後しますが、小学校の時になぜ私が集中砲火を浴びたのかといえば、背景にあるのは、小学校の教師(確か4年か5年の頃の教師)が、私に対して「他の学校では鶏やブタの食肉加工の場面を見学させるんだ、お前みたいな『温室育ち』みたいな甘えた考えで血を怖がるほうが悪いんだ」といった趣旨の事を言って、みんなの前で私を糾弾した経緯があったためです。当時の私が受けていたいじめのなかで、同級生達が血を見せ付けたり、血を連想させる落書きをしてきたり、という出来事があったときの話だったと記憶しています。

 当時の私は「食肉は人間が生きるうえで仕方が無い面があることは認めますし、それが良い事か悪い事かという判断は難しいと思いますが、だからといって、必要ないところまで血を出したり生命をあやめたりする必要は無いのではないでしょうか、また血を意図的に見せ付けられることと、食肉加工でやむなく動物たちが血を出さざるを得ないことと、同列に並べるのはちょっと何か違うのではないでしょうか」という趣旨の事を言ったのですが、教師は私の発言を「反抗」としかとらえていなかったようです。私自身も当時は思春期前か、思春期に差し掛かった頃で、意見を十分に言えるだけの力を持っていなかったため、これ以上の反論は出来なかったのです。その結果、教師は私に対して「温室育ちのヨカブイゴロ」というレッテルをはることに躍起になっていました。


 その傾向が酷くなると、小学校5年の宿泊学習で行われたカヌー体験で、私達の班4人だけが一方的に下船を命じられ(要するに川の河口なので汽水域だから、降りて確認してみなさい、みたいな趣旨で下船を命じられたのに、私達が下船してすぐに、少年自然の家の職員が勝手にカヌーを運転して帰っていった、そこに私達が再び乗船することは許されなかったし、その時間的余裕すらなかった)、しかし河川の中心部、しかも河口に近い汽水域なので、河岸に歩いて帰ろうと思っても、川の河口なので足が思うように動かなく、川の深みに足を踏み入れてしまって、同じ班の人と相談して「他のクラスの船に助けを求める」ことで一致し、他のクラスの船にようやく救助してもらったことがあるのですが、その当時、私が「なぜうちの班だけ、こんな目にあうのだろう」という疑問を独り言的なニュアンスで言ったところ、同じ境遇だったはずの同じ班の人たちが私に対して「甘えんな」「そんな事を言うお前が弱いから悪い」みたいな暴言を集中砲火的に浴びせてくる始末でした。

 要するに、学校の中で既に広まっていた「弱肉強食」「自己犠牲」みたいな空気が、このときにも同級生達の思考に影響していて、要するに「理不尽な事であっても『ギを言うな』」みたいな感じになっていった感じで、そこに、先に教師からイメージ付けられた「温室育ちのヨカブイゴロ」というレッテルが加わってしまう。そして同級生達は、生命の危険みたいなものに無頓着になってしまい、とりあえず訳分からず荒れてしまう、という感じだったように思います。

 川の河口の汽水域、それも川の流れが速い中心部。川に残されていたとき、同じ班の人たちも私と同様に生命の危険を感じた、少なくとも一歩間違えば私達は川の水に流された可能性もあるわけです。その危険を感じたことでみんなが一致したこそ、他のクラスの船に助けを求めたはずなのです。そして、その出来事の発端は、少年自然の家の職員が、「汽水域だから水がしょっぱい、だから川に降りてみなさい」という、体験学習的な意図を装って下船を命じたので、私達はそれに従わざるを得ず、強引に川の真ん中で下船させられ、私達が下船したところで、いきなりその職員がどこかにカヌーを運転して立ち去ってしまう。私達からすれば、置いてきぼりにされたという経緯もあるわけです。

 教師達のやったことによって発生したアクシデントは、これは自然の中の理不尽さではなく「人工的に作られた理不尽さ」であり、安全上の観点からも許せない事のはずです。それについても、同級生や教師達は「文句を言うほうが悪い、弱いから甘えてるから悪い」みたいな主張を繰り返すばかりになっていきました。彼らの中で教師達の「自己犠牲」論とか、「危険なこと、理不尽な事でも触れろ、触れないほうが「甘え」だ」みたいな論理とかが、暴走した結果、この時なぜか私が非難の対象にされる状況になってしまいました。私は彼らに危害を加えていないのにもかかわらずです。


 数々の出来事が重なり、教師の思想が同級生達の間に蔓延した、そこに、例の小刀教育とか、同級生達の間で血を描写したり刃物を持ち歩く事が流行した事とか、あとはテレビなどで残酷な描写のアニメやゲームとかを見る人が増えた影響もあって、その先に起きたこと。中学に入ると、小学校時代にカッターナイフを私に突きつけて脅す様なことをしていた男子たちが、あるとき、近くの農家が飼育していたニワトリの首を全部切って全滅させたという出来事も起きてしまいました。

 もちろん、私自身も中学では小学校とは比較にならないほどの酷いいじめを受け、さらには教師がいじめ隠蔽に躍起になるがあまりに、私のいないところで私の親だけを呼び出して、私の事について、事実無根の事をでっち上げてレッテルをはる、「冤罪」を作り出す手法によって学校側や教育委員会が保身を図ったわけですが、そうした残酷な出来事が横行したのも、小学校時代の学校教育の中にある「世の中の汚い事、残酷な事にあえて目に触れさせる、見ない人間は「甘え」だ」みたいな教育方針がもたらした悪影響が大きかったのでは無いでしょうか。刃物に対して抵抗感がなくなった人たちが結果的に学校でのいじめだけでなく、動物虐待にまで手を染めてしまったわけです。


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 ここまで私は自分の経験もふまえて書きましたが、学校教育の中にはびこる、「世の中の汚い事、残酷な事にあえて目に触れさせる、見ない人間は「甘え」だ」みたいな価値観に基づく教育方針。これが、今回のISIL事件の画像を子ども達に見せた教師達の思考の根底にも共通してあるように思いますし、そうした思考に影響を受ける子ども達が増えると、数年後、徐々にその子ども達は荒れていくように思います。私は自分が受けた学校教育の経験から、そのように思うわけです。ある人は暴力行為や虐待行為に及び、ある人は性犯罪に及んだりしてしまいます。残酷な出来事に対して麻痺してしまう、あるいは残酷な出来事を拒否することに対して「甘えだ」「悪だ」と決めつけられ、残酷な出来事が礼賛される思考の中で、こうした傾向が強まっていく事は明白です。



 果たして、残酷な事を見ないという選択が、本当に「甘え」として糾弾されるべきなのでしょうか?私はそうは思いません。残酷な事を目にしたとき、あたかも「現実なんだから当然」みたいな感じで感覚的に麻痺してしまう人が増えるなら、残酷なことをする人たちの行為を正当化してしまうことにつながってしまいます(教師達の真のねらいは、実はこの点にあるかもしれないのです。要するに、ISILのやった蛮行を正当化する論理を学校内部の日常にも適用する手法で、学校のいじめっ子達が行っている犯罪行為を正当化しようともくろんで、自己保身を図ろうとする教師達の目論見があるようにも思います。少なくとも私が見てきた義務教育ではそのような空気が蔓延したことは事実です)。

 残酷なことをする人たちの行為を正当化してしまうことは許せないし、残酷な出来事について、トラウマにならないために、安全のために、自分で自分を守る判断として、「残酷なものを見ない」という選択肢があって然るべきだといえます。仮に「見たくない人は見なくても良い」という事を教師が言っていても、そこに「見たくない人は、残酷な事に目を向けない「甘え」人間だ」というレッテルや価値観が教室の中ですでに蔓延しているならば、事実上「残酷なものを見ない」という選択肢は奪われてしまう、あるいはその選択肢を選ぶ事ができないところにまで数々の仕打ちの中で追い込まれてしまう、ということも意味するわけです。

 何を持って残酷な画像とするのかということは議論があれども、少なくとも、明白にトラウマを誘発する可能性や、犯罪を誘発する可能性のあるような、残酷なものについては、目に触れさせてはならないし、あるいはそのような可能性が一見して存在しないように思えるものでも、様々な残酷な価値観の植え付けと併用される形でその画像の視聴が行われたのであれば、残酷な出来事に対して麻痺してしまう、あるいは残酷な出来事を拒否することに対して「甘えだ」「悪だ」と決めつけられ、残酷な出来事が礼賛される思考をもつ人たちが増えることでそれが「同調圧力」「組織の中の社会的制裁(いじめ含む)」という形になってしまうことは明白で、そうした空気の中で、自身の意思に反してトラウマとなる画像とかを見ることを強要される人も出てしまう。そうしたこともあるわけですから、そもそも残酷なものを学校現場であえて見せるということは、百害あって一利なし、子ども達の心を荒廃させる行為であり、まさに許しがたい暴挙としか言いようがありません。

 いろいろと書いて話がグダグダになってしまった点は申し訳ないですが、残酷なモノを見せることで教師達が何を意図しているのか、教師達は子ども達をどのように誘導したいのか、そのことを考えたとき、教師達が取る「残酷なものをみせつける」行動は「百害あって一利なし」の影響しか生まないのは明白です。私としては、こうしたことが教育現場で蔓延している現状には怒りしか感じません。

posted by ななこ at 04:47| 時事の話題 | 更新情報をチェックする
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